『プロペラ親爺』 1939年東宝東京
監督 渡辺邦男
製作 氷室徹平
原作 脚本 山崎謙太
撮影 三村明
音楽 谷口又士
柳家金語楼(樫村金兵衛) これでまだ38歳である
若原春江(金兵衛の姪 敏子)
清川虹子(甚吉の妻 おとき)
藤尾純(楠寛)
伊達里子(楠初枝)
森野鍛冶哉(河田甚吉)
高利貸しをしているケチ親爺の話だが、そのケチが徹底していてかえって驚いた。
例えてみれば、当時の戦争遂行のためとして訪れた町会費の集金人を追い返してしまうのだ。俺は自分のために金を貯めるんだときっぱり。その意気や立派。こんなシーンを検閲でカットしなかったのである。まだ戦争を甘く見ていた(余裕があった?)ころの日本がよくわかる。
金語楼オヤジが乳母車を引いて歩いている。車の中はガラクタでいっぱい。畑を通ると農家の人とあいさつを交わしながら大根やネギが畑の隅に放り出してあるのを拾い集める。ああもったいないと言いながら。建築現場では木っ端や木くずを拾い集めてこれで風呂の焚きつけになるという。通り過ぎると皆、あのけちん坊がと言い散らすが親父は堂々としたものだ。豆屋の前でこぼれた豆を拾っていると、拾うなら買ってけとけんかになったりする。
だがうちに帰れば近所の姪夫婦やお隣さんがイヤにちやほやするのである。それはオヤジはケチだが金持ちだからなのだ。その上大家で、金貸しでもある。だから周りはおこぼれにありつこうと必死なのだ。だが彼は決して気を許すことはなく、あくまでも自分だけのために金を貯めるのである。拾ってきた鉄くずや金物は仕分けして庭の物置に収まっているといった風なのだ。
そんなある日、遠くから姪に当たる小さな少女が出てきた。なぜかと言えば両親が死んでしまって行くところがないというのだ。さあこまった。オヤジはもうこの娘の食費の算段をして、そんな無駄出来ないからどっかへ帰りなさいなどと言う冷たさだ。
極めつけはこうである。この少女は大人に疑いを持つなど決してない純な少女であり、国のすることにも絶対疑いはしないのだ。それでコツコツと金を貯めているこのオヤジを、最後にはその金で戦闘機を国家に寄付するのだと信じている。
オヤジはバカなこと言っちゃいけないよ、誰がそんなことを、と否定するのだが、この少女のひたむきさに最後には負けてしまい、彼女を追い出そうとする人々の矢面に立ってこの少女を家に置くことにし、挙句には飛行機のプロペラだけでも買えればなぁなどと言う始末である。そしてついに戦闘機を軍に寄付するまでになってしまうのである。
これが国威発揚映画なのである。まったくこの1939年という時期にこれほど「国に尽くす」ということを茶化した作品があるだろうか。びっくりである。
ちなみに、1944年に作られた、これも倹約して国家に尽くそうという映画があるが、これも金語楼主演の『愉しきなり人生』という映画である。しかしこちらはもう敗戦色濃い時で、けちんぼオヤジなどと悠長なことは言っておれず、とにかく金目のものを集めて国家に尽くそうという切実さを訴えるもので、まじ顔である。もう金語楼がいくらおちゃらけても面白くも何ともないものだ。観ていて背筋が寒くなる態のものだ。
この5年の間に戦況ががらりと変わったことを映画はよく現わしている。

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