『卍』二題 時代性を越えられないキワモノ映画
1964年 増村保造版 大映
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
音楽:山内正
徳光光子:若尾文子
柿内園子:岸田今日子
柿内孝太郎:船越英二
先生:三津田健
1983年横山博人版 東映
監督:横山博人
脚本:馬場当
音楽:林光
志藤光子:樋口可南子
柿内園子:高瀬春奈
柿内剛:原田芳雄
映画には旬というものがある。つまり時代性だ。この時代だからこそ価値のあった表現が、別の時代においては没価値性しかないというたぐいで、この二つを見るとそのインパクトの強さ弱さが、その時代性に大きく支配されるものだなあとつくづく感じた。
64年に封切りされた増村版は当時そうとうインパクトがあったと覚えている。それから20年もたって作られた横山作品はもうすっかり時代に飲みこまれた凡作でしかない。キワモノとして力がなくなっているのだ。そういう空気は遠く時代が過ぎた今観ても作品に現れるものなのである。なぜならば作品の緊張感がないのだ。時代を背負って表現しているという緊泊感がない。
三作目以降は観ていないが、この二作目を観て、もうこの小説は映画にして何の価値も持たないものとなっていることに愕然とするのだ。これほどただのポルノになっちまうのかと驚いたのだ。
いや脚本、監督の力と役者が違うのだと言ってしまえばそれもそうなのであるが、どうもそれだけではない何かが違うのだ。
肉体の美というテーマはこの作品ではおろそかにできないものだ。はじめからレズビアンだった女が出会うのではない、肉体に引っ張られて自分の中の同性愛が湧きだしてくるのである。いや同性愛だとかいうよりも美しい肉体そのものに惹かれていくのである。
だから肉体は絶対的に美しく撮らねばならない映画なのだ。替え玉を使っても美しい裸身でなければいけない。ところが第二作目ではどうかと言えばやせっぽちの樋口と肉のかたまり高瀬春奈なのだ。この二人がお互いの肉体に惚れこんだとは到底思えない。
彼女らが絡み合うのは同性愛の発見でしかないのだ。そこに男が絡んでくるさまも、美ではなく男の性欲がなせる業ではないか。その意味で男っぽい原田芳雄はミスキャストなのだ。
船越英二のようにどこか頼りのない男が、だんだんと妻の過激さに飲み込まれていくさまが、この男の立場を表しているのだ。自律した考えを持たない男の落ち込んでしまった淵なのである。だから最後は死ななければならなかったのだ。
怪優の岸田今日子だからこそこの女を演じられたというべきかもしれない。

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