『愛染かつら』 1938年松竹
野村浩将 監督
野田高梧 脚本
川口松太郎 原作
田中絹代、上原謙、桑野通子、岡村文子、坂本武、水戸光子、佐分利信
すれ違いメロドラマと銘打ってある映画だが、これはめそめそしないしキリリとした田中絹代ならではのかつ江役である。それは意外だった。ぼくでさえ予想に反してこの映画がジメジメしてなくてほっとしたのである。
女性がみな溌溂としているのは、この時代の女性映画の特徴かもしれない。
この作品は残ったフィルムの短縮版ということで、全編を見てみたいが、この方がかえってまとまっていていいのかもしれない。元の作品は怒涛のメロだったかもしれない。
子供を持つ看護婦かつ江が、子持ち不可という病院の規則違反にもかかわらず、上役の前でも物怖じせずにはっきりとものを言う姿は清々しい。始めはそんな彼女に反感をあらわにしていじめる看護婦仲間も、彼女の話を聞くうちにすっかりとほだされて皆味方になる。それのみならず、彼女を好きになった院長(上原謙)も、その許嫁の女(桑野通子)も彼女に同感の意を示す(人間が出来過ぎ!)など、これほど恵まれた看護婦はいないというほどハッピィな役柄だ。
おまけに歌を唄えて、ついには満場の会場で仲間たちの大声援を受ける。まさに大発展家の女である。
すれ違いの悲運はあるにせよ、これを悲恋などと言ってはおかしい。こんな恵まれた人間は珍しいくらいだ。最後も若い院長と結ばれる余韻を残して終わるのである。まったくめでたい映画なのだ。悲劇でもメロドラマでもない。
なぜこれほど能天気な映画が受けたのだろうか。観客がそれを望んでいたのであり、それとやはり田中絹代のキリリとした初々しさなのだろう。
『愛染かつら』 1954年日本
木村恵吾監督 京マチ子、鶴田浩二主演
というわけで、このハッピィな物語を哀しいメロに仕立てなければいけない、となると難しい。監督も大変だ。とそんな映画になっちゃったのがこれ。
鶴田浩二が気弱な青年医師を演じている。彼と子持の美女看護婦京マチ子の恋愛劇である。
型どおりのストーリーだが、なぜそれほどまで悩んだりしなければいけないのか今の感覚では到底悲劇とはいかない。これはもともと悲劇ではない。
どこか悲劇として見たい向きに迎合して泣いたり叫んだりするのだが、実はなんということもないこれはめでたしめでたしのハッピイエンドなのだから、どこかで悲しいシチュエイションを作らねばというわけで、泣いたりわめいたりするのである。
だからどうにも現実味のない話になってしまうのだ。それでやたらにすれ違いの悲劇や身分の違いの悲恋みたいなエピソードを挟み込むのだがそれも大した悲劇でもなく見ているほうは失笑してしまうのだ。
木村恵吾という監督はどうにも器用さのない監督だなと思ってしまう。鶴田浩二に気弱な人間を演じさせたり京マチ子によよと泣くばかりの女を演じさせたり、どうにも俳優の資質というものを生かせないで苦労している。すべての演技にムリがあるわけなのだ。

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