『わが恋は燃えぬ』 1949年松竹
監督 溝口健二
脚本 依田義賢 、 新藤兼人
原案 野田高梧
製作 絲屋寿雄
撮影 杉山公平
平山英子:田中絹代 父:荒木忍 母:平野郁子 小作人:宇野健之助 娘千代:水戸光子 重井憲太郎:菅井一郎 早瀬龍三:小沢栄太郎 岸田俊子:三宅邦子 稲垣大助:千田是也 井藤俊文:東野英治郎 壮士荒井:松本克平 教誨師:南光明 お政:沢村貞子 自由亭おやじ:小堀誠
いまだ民衆に参政権のなかったころに、普通選挙を求めて闘った人々の物語だ。しかしその運動の中で女性は相変わらず人としての尊厳を得られなかった。この矛盾に気付いた女性が尊敬する男に次々と裏切られていき、女性のことは女自らがが動かなければならないと痛切に感じるようになる。モデルは福田英子である。
家父長制が揺るぎ始めたころ、ある一家のお嬢さん平山英子(田中絹代)は、自分の内の使用人の娘が東京に売られようとする事態をとめようとする。しかし両親をはじめとして社会はとことん女性には冷たく、彼女の真摯な思いは及ばなかった。そして貧しき者たちがこの理不尽になすすべを知らないことに疑問を感じる。
地方においても芽生え始めたデモクラシーの機運は彼女を運動員の男に引き付けるが彼は東京に出ていってしまった。彼女も家を出て後を追うが彼はデモクラシー運動に敵対する権力者のスパイに成り下がっていた。
彼女は運動の主体である自由党の事務所に勤めることができたが、そこでも自由の旗を振っていた首相まで寝返ってしまうのだった。
この党をつぶしてはいけないと運動を牽引する重井という男が毅然として先頭にたった。彼はおりしも起こった秩父の製糸工場での奴隷労働に対する民衆運動の高まりに駆けつけるが、官憲の弾圧にあい英子もろとも監獄に連れて行かれてしまう。
奇しくもその工場に売られて働かされていたのが元使用人の娘の千代だった。英子と彼女は幼いころから身分は違うが友達だったのである。千代もまたこの混乱の中で逮捕されてしまう。
彼女は家にも社会にも男にも裏切られ捨てられて、ボロボロの心を引きずって生きる底辺の女性になっていた。
生きるだけで精いっぱいの中で牢に入った彼女と、理想に生きようとして運動の中で牢に入った英子の、将来の思いはおのずと違っていた。千代は英子の慰めにも心を開く余裕などなかったのだ。
「わが恋」というのは人に対してではない、この当時としてはあこがれの民主主義という夢に向かって言った言葉であった。
こういった政治をテーマにする映画は日本ではどうもあまり受けがよくない。評論家も「傾向映画」とか言って特殊な映画のごとく言うのである。何をテーマにしようと映画は映画として解釈しなければいけないと思う。
民主主義という理想に燃えた男たちの勇気と、それに裏切られた女たちの自由の欲求が描かれた作品である。その二つは同じ位相で起こる。決して別々に存在したものではないのだ。
映画としてはこれを個別に描くのが常だった。溝口はこの二つのテーマをリアリズムで描き、有り体な映画の常識を超えようとした。だから生々しいほどの現実がさらけ出される結果となった。
これを映画人は避けて通ってきたのだ。どこかに映画美のようなものを示さないといけないと感じてしまい、プロパガンダと映ることを怖がっていたのだ。しかしこの映画に人間の悲しさや希望があり、人間のどうしようもなさや醜さが描かれているとすれば、それは正当に評価すべきものと思う。
このテーマでの映画化は長大になるべきものを彼はうまく短時間にまとめているとぼくは思うのだ。なかなかの秀作である。
それに実在の要人を扱っているし実際の秩父事件などをそれとわかるようにして描いていることも勇気のあることだと感心したのだ。
映画は自由の旗印を掲げた重井が女性に対しては依然と古い殻を抜け出せていないことに落胆して去っていくのだが、その毅然とした態度がいい。ここでメロにしないところが溝口である。
そして重井は千代を愛人にするのだが、彼女もついに決心して英子のあとを追って車中で抱き合う、この女同士の絆が感動的である。

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