『浪華悲歌』 1935年第一映画
溝口健二 原作、監督
依田義賢 脚本
三木稔 撮影
配役
村井アヤ子=山田五十鈴、
社長(麻居惣之助)=志賀廼家弁慶、
社長の妻(すみ子)=梅村蓉子、
アヤ子の父(準造)=竹川誠一、
アヤ子の妹(幸子)=大倉千代子、
アヤ子の兄(弘)=浅香新八郎、
アヤ子の恋人(西村進)=原健作、
株屋(藤野喜蔵)=進藤英太郎、
医者(横尾)=田村邦男、
刑事(峰岸五郎)=志村喬、
アパートの管理人(福田みね)=滝沢静子ほか
浪華悲歌は、なにわエレジーと読む。
何とも思い切った企画の映画である。今までの日本映画の働く女性ものは、家族を背負って一人黙々として働く姿である。どれほどつらい思いをし頑張って、ふがいない男を養ってきたか、とそういうものだ。ところがこれは全く違う視点を持っているのである。
溝口の、そうは問屋がおろしませんよという声が聞こえてくるようなのだ。
会社から金を横領した父と、学費を払えない兄のために体を張って稼ぐアヤ子という女が主人公である。彼女は会社で電話の交換手をしている。そこの若い社員が恋人なのだがどうにもはっきりしない男である。
金の算段もままならず仕方なく社長に囲われる身になるが、これは奥さんに見つかってとん挫する。これを機に彼女に目を付けていた株屋が近づいてきたのでこのダンナから大金をせしめて恋人のところに逃げてしまうのだ。しかし踏み込まれたので恋人を用心棒に見せかけてダンナを追い出してしまった。
気の強い彼女だったがこれが訴えられて恋人と一緒にいる所でついに警察につかまってしまう。ここでおじけついた恋人は彼女を捨てて帰ってしまい、結局父親が引き取りに来て釈放されるのだった。
しかし家に帰った彼女に、家族は全く冷たかった。彼女が何のために男たちをだまし続けてきたのかを理解せず、ここで家族にも厄介者扱いされて、再びアヤ子は家を飛び出してしまう。
橋のたもとにたたずむ彼女に知り合いの医者が声をかけるが、彼もまた数ある男の一人でしかなかった。
女が一人で生きていく姿をただ描いたというわけでもない。また強い女の生きざまを現わしたというのでもない。多くの観客にとってはなじみのない女像なのだ。だからまるで理解できないような異星人みたいな女かといえばそうではなく、まさにそこにそうして居るし、居たであろうリアルな女性なのである。
こういう人間像をリアリズムで表すことがいかに難しいかは、大方の名作群を見ても見つけられないことで明らかである。
この女は周りの男を突き放して生きていくが、同時にこの映画もぼくらを突き放すのだ。
アヤ子の周りの男たちはすべてが不甲斐ないか虎の皮を着た腰抜けである。何か男というものにとてつもない恨みがあるような描き方である。それに対して彼女は一人戦うのである。
しかし、彼女も決して正攻法で戦うわけではない。男をだまし強引に詰め寄りそしてあっけらかんとしたふてぶてしい女である。どんな苦境に立たされようと彼女は決して男に頭を下げないのである。
そして行きつく先は・・果たしてどうなるのだろうか。それはタイトルの「悲歌」という言葉がほのめかしているのではないだろうか。
山田五十鈴の渾身の演技だ。大阪の根性女である。
『祇園の姉妹』 1936年第一映画
製作:永田雅一
原作・監督:溝口健二
脚本:依田義賢
撮影:三木稔
編集:坂根田鶴子
配役
おもちゃ(芸妓妹):山田五十鈴
梅吉(芸妓姉):梅村蓉子
古沢新兵衛(木綿問屋):志賀迺家辨慶
おえみ(古沢の妻):久野和子
定吉(古沢の番頭):林家染之助
おはん(定吉の妻):三枡源女
工藤三五郎(呉服屋):進藤英太郎
おまさ(工藤の妻):いわま櫻子
木村保(工藤の番頭):深見泰三
聚楽堂(骨董屋):大倉文男
梅龍(芸妓):葵令子
お千代(扇家の女将):滝沢静子
立花(運転手):橘光造
『浪華悲歌』の姉妹編である。主題は全く同じだ。
おもちゃと呼ばれているモダンガールが、男たちを相手にただひとり決然として戦う映画である。セリフの中には社会に対して、なんでこんな世界があるんや、と悔しさをあらわにする場面もある。戦った末に最後は負けてしまい、しかしまだ闘争宣言をして終わるのだ。劇中の女のみならず溝口健二はスゴイ執念である。
プロローグは、店がつぶれて財産をオークションにかけている場面である。大阪を舞台にした映画ではよく出てくるシーンである。
無一物になったダンナは近くの芸妓姉妹の住処に転がり込んだ。この姉妹の姉は人がいい上に世間体ばかりを大切にする女で、こんなダンナでも今までの義理を立てて受け入れてしまう。妹はそんな姉を見て嫌気がさし自分はこんな世界をいずれ飛び出そうと考えている。
この妹を山田五十鈴が演じているがキップのいい、そして狡さもいっぱしの女を演じて見事である。
彼女は居候している姉のダンナを言いくるめて追い出してしまう。しかしそれを知った姉も出て行ってしまう。
彼女の魅力は周りの男たちをひきつけてやまないが、ある時、呉服屋の若い番頭を手なずけて反物をせしめて自分の服にしてしまっていた。
この一件で彼はダンナにひどく叱られて、そのダンナが取り返しに来るのだが、そのダンナも彼女にうまく手なづけられてしまい鼻の下を長くして帰ることになる。帰るなり番頭にもう女と会うことはまかりならんといいつける。
しかしある日このダンナと番頭が彼女の家で鉢合わせになってしまい、ダンナは言いつけ違反と気まずさから激昂して番頭を首にしてしまう。こういう場面においても彼女は白々とした嘘をつき、その場その場で男をもてあそぶことができるのだった。
ダンナに頭の上がらなかった番頭はここにきて豹変する。ヤクザ者を頼んでこの仕返しを、彼女にするのだ。ある晩彼女は拾ったタクシーに連れ去られて、大けがを負って病院に運ばれてしまうのだ。
映画は、お門違いの怒りを、弱いものへ小さき者へと向かわせる男の見苦しい有様をいやというほど描くのである。
病院のベッドで彼女は、再びダンナに捨てられてしまった姉を横にみて、虚空に向かって叫ぶ。だれが男に負けるもんか。芸子なんて、こんなもん、なかったらええのや。
この戦闘宣言はしつこく繰り返される。ぼくらは聞いているうちに、これを言っているのは劇中のおもちゃではなく、どうしても監督溝口の言葉ではないかと思えてくるのである。うがって考えれば彼のアジティションのようなのだ。
つまり映画としては勇み足なのだ。

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