『東京物語』 1953年松竹
小津安二郎脚本、監督
野田高梧脚本
笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聡、三宅邦子、香川京子、大坂志郎、東野英治郎、十朱幸雄、中村伸郎
これほど評価された映画もめづらしい。たしかにそれだけの映画である。
ずっと以前に横目で見た記憶がある。その時は目を向けると同じような画面がいつも出てくるので、まったく気にも留めずに消してしまった。つまりこれは一人で相対してみなければいけない映画だったのだ。
人の関係と日常を丁寧に描くということは世界を描くことだということを、示すような作品である。奇をてらって何かをいおうとするよりも足元の日常にこそ人間のすべてが隠されている、ということに気づかされるのだ。
親子においてもほんの些細な仕草のズレや言葉の行き違いがまるで違った印象を相手に与えるのだ。登場人物はそれぞれにそれなりの精いっぱいのことをしているのだが、それを受け取る人間にとって、その思惑がそのまま伝わるわけではない。それは親子とて同じだ。そして当人も各自それをわかってはいるのだが、だからといってすんなりと腑に落ちることもない、ということだ。
それを家族の中に限定して現わそうとしたのだが、その意気や凄いものがある。画面の静けさと仕草の穏やかさとは裏腹にかなり強烈な内容なのだ。
おおよそこの物語はこう語られるだろう。血のつながった親子よりも他人である次男の嫁紀子に周平が愛着を感じ、彼女も身内の誰よりも丁寧に義理の親に尽くすことで、血のつながりの不如意さをあらわした、と。同時に身内の者の冷たさを表現したと。それが人間なのさ。
しかしことはそう単純でない。「他人」である嫁の紀子が自ら言っているように、それは表面に現れた事象でしかないのだ。だから彼女が「わたしはずるい女です」ということばが謎かけのように最後まで響くのである。彼女がこれほどまでに誠意を尽くしていながら「わたしはずるい女です」ということばを吐かせることでいったい小津安二郎は何を現わしたのだろうか。彼女の屈託のない笑顔がかえって不気味なイコンのようにして心に残るのである。
また、固定カメラの映像はここまで徹底すると不気味である。見ていてだんだんと、いったいこの人は何を言いたいのだろう、といぶかしさを超えて考えざるをえなくなる。そこがミソなのかもしれない。つまり、思い付きでこのような冒険はしないものだ。
そして次第にぼくらはその意味を考えざるを得なくなってくるのだ。こうして彼はこの映画は腰を据えて見て下さいよというのだ。たしかにそうして身じろぎもせずじっと画面に見入っていると、あらふしぎ映像にはないものが「見えて」来るのだ。
カメラが人物を追えば、そこには見えるものだけが映る。しかし固定カメラはつぎに写る映像を保証してはくれないのだ。だから緊張感があるのだ。だからぼくらは絶えず緊張を強いられているのである。
すると演者の一挙手一投足に意味があることに気付くのである。ふとした物腰や言葉の間に意味がついてくるのだ。むだな動きや言葉は一切ありませんという作者の声が聞こえてくる。
出てくる人間のそれぞれの世界が確固としてあり、それがせめぎ合うのだ。決して相手の世界には入ることができないそのどうしようもない隔絶が闘い合うのだ。そして一人を除いて、つまるところそれぞれの世界を共有するということはできないと感じているのだ。
もちろんその一人とは杉村春子である。彼女だけは俗の人なのであり、それだからこそ人間臭い優しさも冷たさも持っている人間なのである。いわば彼女がわれわれであり、その他は人の形をした思念なのである。
第一層には家族を描いたホームドラマがあり、二層には人間の共有することのできない世界があり、三層には人間とはなにものかという問いが隠されている。それを人の優しさというものの陰に潜んだ得体のしれないものとして提出したのだ。

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