『お早う』 1959年
小津安二郎監督
三宅邦子、笠智衆
どこといって捉えどころのないような喜劇だ。しかしこれがこの監督の味らしい。たしかにそういう味はあり、日常に潜んでいる悲喜劇というものを引き出すのが上手である。なんといってもそこに取ってつけたような振る舞いがないのがいいのだ。こういう作為を感じさせない作法は意外と難しい。どんな監督でもつい行き過ぎた演技をさせてしまうのだ。というよりも行き過ぎた演技をそう感じさせない上手さといおうか。
多摩川の土手の縁に建つ新興住宅の住民たちの生態が淡々と描かれる。その当時には普通にあっただろう近所の付き合いやちょっとした行き違いやいざこざを描き、その中にある小さな喜劇を取り上げる。小さな喜劇というのは小さな悲劇でもあるということがそれによってあぶりだされるのだ。
こういう日常が今ではなくなったと言いたいところだが、形を変えて今でも淡々とした日常はある。そしてそういう日常を描いた映画作品もある。しかしながら今の映画の描く日常はどうも作為が鼻についてしまう。どうも嘘っぽいのである。時を経た映画というものがそう思わせるのか、ぼくの思い違いだろうか。
『お早う』には山もなければ谷もない。これといった起承転結もない。あるのはやはり日常に潜む喜劇なのだ。こういうおかしみの味を過剰な時代に味わってほしいと思う。
『生まれてはみたけれど』 1932年(昭和7年)
小津安二郎監督
斉藤達雄、吉川満子、菅原秀雄、突貫小僧
小津安二郎初期の名作、サイレントである。子どもの群像映画だが、一方で子供の世界と大人の世界の軋轢をうまく描いている、大人の映画でもある。
どこかで見たと思ったらのちに小津が撮った『お早う』はこの作品のリメイクだったのである。一家族ものを複数の家族物語にしたのだ。大人の偽善を見て子供が反抗してストライキをしてしまう。ぼくらの年代にとっては、あああの頃はなにか同じことをしていたなぁという思いがよぎる作品だ。あの頃の自分を強く感じてしまうような映画であって、決して映画として特別に優れているとは思えない。
しかしそういう、時代の日常を切り取る手腕においては、やはり小津は抜けていたと思う。映画をつくるとなるとどうしてもどこかで「ドラマ」を作り上げようとしてしまうからだ。そうやって観客を泣かせたり笑わせたりすることだけが映画じゃない、と言わんばかりなのだ。つまり映像に自信を持っていたのだろうと思う。
淡々とした日常を撮っているように見えるが、画面の説得力がそれを退屈にもさせず、これからどうなるのだろうかとぼくらを引き付けるのである。それは、ありていのドラマではないからこその効力なのではないか。つまりドラマをあえてつくらないから、次の出方が読めないんである。こういう手法もあるか!と膝を叩いてしまった。
彼も子供の世界を描くのがうまいがそれは家族としての子供である。一方の「子供の世界」の巨匠は川島雄三であり、こっちは子供の内面奥深くに入り込んだ描き方をするのである。

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