『愛の渇き』 1967年日本
三島由紀夫原作 蔵原惟繕監督
浅丘ルリ子、山内明主演
どうにも息のつけないような張りつめたシーンばかりである。だから画面から目が離せない。ぞんざいなシーンは一つもない。そういう意味ではいい映画だといえる。
大地主の一家が舞台。その土地を切り売りしてぜいたくな暮らしをしている。妻に死なれた家父長とその妾、長男夫婦、長女と子供、使用人二人、この人たちが奇妙な関係性をもってあやうい日常を暮している。その一家を支配しているのは浅丘ルリ子の演ずる妾の精神性である。他人を受けつけない強い精神性がこの一家の空気を操っている。
しかし若い使用人の男がいて彼も表面は実直な使用人なのだが、どこか彼女を上回る精神の強さを持っている。このふたつの精神性の織りなす駆け引きが、上下関係を逸脱して対峙するのである。この映画の緊張感はそこに生まれるわけだ。お互いがまるでひとの世界に紛れたミュータントのように相手を認識する、これは同族だ、と。
たぶん三島の美学とはこういうものなのだろう、と感じさせる。生きるとか死ぬとか、または愛するとか愛さないとか、そういうところで人は生きてはいないのだと彼が言っているようである。象徴主義映画なのだ。今画面に映っていることとは違う何かを表しているのである。
悪く言えばすべての画面が芝居がかっていると言える。大切なものがそうではなく些細なことが重大事なのだ。そういう人の側面というものがある。
ふだん目をそらせたいと思っているひとの中にある根源的な暴力(呪い)である。自分でもわからない怨念のようなものである。つまるところ、自分の中に在る、もしくは欠けているものへの怨念(ルサンチマン)なのである。それを狂気の中にではなく日常を舞台として表そうとするとこういう風になるということだろうか。
それを狂気の中であらわしたものが『炎上』(三島由紀夫の『金閣寺』)なのではなかろうか。

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