『ドリアングレイの肖像』オスカー・ワイルド著
ワイルドの芸術至上主義小説である。しかしあまりにも類型的な筋立てなので少しがっかりした。
絶世の美男子ドリアンの行く所、関係する人々がことごとく不運に襲われる。『源氏物語』でも光の宮(光源氏)を評して、「恐ろしいほどの美しさ、何か良くないことが起こらねばいいが」と言うくだりがある。人はあまりにも美しいものを見た時に古来からそうした予感を感じたものらしい。それは今の我々においてもそうかもしれない、たぶんそうだと思う。つまりこのシチュエイションは一つの類型なのだ。
芸術至上をうたうワイルドがこんなありきたりのストーリーを書くとは、と少し興ざめしたわけである。
ある画家がドリアン・グレイの肖像画を描き、それを当人に渡すのである。ドリアンという青年はこの世ならぬ美青年なのだがしかし、恋人ができた頃からただの俗物にしか見えないような人間になってしまう。若さこそ美の象徴だと思っている彼が、ぼくの代わりにこの肖像画が歳をとってくれたらなぁ、などという。それじゃまるでオヤジである。
そしてあとは読んでいるぼくらの想像を一つも超えない展開になっていくのだ。10年たち20年たちしてドリアンはまったく若さを失うことがなく、その絵の中の自分が歳をとっていくのだった。
おお!こわい!と言いたいが、こちとらちっとも怖くないし、かえって劇中のドリアン自身が大いに怖がっているのを読んでいてばっかじゃないの?と思うばかり。
しかも、まわりの人間がまったく彼の姿が変わらないことに不自然さを感じたり怖れたりせずに、たんたんとしてドリアンと付き合っていることがまことに興ざめなのだ。あまりにもリアリティを無視しているじゃないか。だからどんなに言葉を尽くしても、どれほどとんでもない事件を起こしても、読んでいるこちらはちっとも気持ちが騒がないのだ。
それで起こる事件といえば通り魔のような何の心の葛藤もないものばかり。これが芸術至上小説というならば、そんなもの糞だめに捨ててしまえと思う。
川端康成の『眠れる美女』みたいなものが芸術至上小説っていうんじゃないの?
『オスカー・ワイルドの生涯』山田勝著(NHKブックス)
『ドリアン・グレイの肖像』については上に書いたが、小説としては駄作ということだった。それはリアリズムからは遠く離れているし、プロットはどこかで見たようなものばかりだったからだ。
しかし今回『オスカー・ワイルドの生涯』を読むと、ワイルドは自身でいい小説を書くよりも自分の生き方そのものを芸術にしたいと言っていたそうなのである。そして彼は自分が芸術至上主義そのものを生涯つらぬいたという点において見事な一生を送ったのだ。
当時は産業革命後の資本主義がいちばん醜悪な姿をしていた時代で、そのために社会は騒然としていた。ひとが土くれのようにして使い捨てられていたのだ。
ワイルドは没落する貴族の側からそれに抵抗する。その仕方は役に立たないことをする、無駄をする、切磋琢磨の労働をしない、ということだった。当時主流になりかけていた勤労は美徳といったプロテスタニズムとキャピタリズムに反することを身上としたのだ。それは彼の立場からの反抗だった。その表現はつまりが放蕩息子の生き方であり芸術至上の生き方なのだ。それは当時の上流には受けたし時代の寵児にもなった。
一方でこの時代は女性が目覚めるときでもあった。生産性だけが社会の軸になればそこに男も女もないのだ。資本主義にに違和感を覚える人間にとっては、ダンディズムやホモセクシュアルなどもそういう中で出てくる必然の結果なのだった。そうしてこの時代は、彼を時代の寵児から外れ者にと転落させていくのだ。
こういうことを知った上で彼の作品を読むと痛いほど分かるところがあるのである。つまり評価が少しあがったのである。
ぼくは芸術作品とは作者の「人となり」とは別に評価すべきだという意見の持ち主だが、実際は作品と人とは分けることができないものだ。しかし見たり読んだりする作品の作者をすべて知るわけにはいかないのも事実なのだ。だから自分の友人が作る作品には思い込みがそれを評価する一因になることも否めないのである。思いが大きければその作品の価値は上がるのだ。
オスカー・ワイルドにとってこんな風にして評価が上がることは決して望むところではないことも承知している。なにしろ「芸術至上主義」なのだから。ゲッツ!

0