テレビ番組、五木寛之の『ブッダへの旅』シリーズのアメリカ編というのを見た。その中で五木がある外科医と話をする場面があった。
そこで彼は、太陽が後ろから射してそこに落ちる自分の影を見て、ああ影の中を歩いてはいるがこれは後ろから太陽が照らしてくれているからだなぁ、と認識する、そういう考えを大乗(仏教)の教えの比喩として伝えるのだ。が、まったくそういう論理を理解しないアメリカ人を前にして苦笑する五木の姿を映していた。
ぼくらは決して日の光の中には立てないのだ、という「事実」を考えられる人とそうでない人がいるのだ。
ぼくらは木陰から日向に飛び出して暖かい日差しを浴びてはいても、いつも影の上に立っているのだと気付く。全き日差しの中に立っていることはできないのだ。それはどんな強い日の光の中に立とうと、ぼくらは自分の足がつくる日陰にしか立つことはできないからだ。つまり永遠にわれわれが太陽の日差しそのものの上に立ち上がることはないのである。ひとは、いつも太陽のつくる陰を踏む存在なのだ。
こういう喩えを理解できないのが、先に言った五木と対峙したアメリカ人なのである。
その人はけっして凡庸ではなく、人の幸せを願って活動する人なのである。しかし、どんな「いいひと」であっても、人の上に立ち人の前に立って引っ張る人間はその意味が分からないのである。それは自分のつくる影を理解できないからなのだ。
もちろん五木がそんな失礼なことを言ったわけではないが、ぼくはその番組を見てそう思った。
その映像の中で何人かのアメリカ人が、自分が危機に直面して初めて仏教の教えを理解したと言っているのを、なるほどなと思って見ていたのだ。前を向くことしか教えられぬ国の人々は自分の影というものの存在を意識することはなく生きているのだ。
仏教は生きることは苦である、という教えだ。生まれることさえ苦なのだ。仏教とはすでに宗教でさえないのだ。
あらゆる宗教に欠かせないものが神であるならば、仏教は宗教ではない。生きて死ぬ術を模索する「教え」なのだ。
世界宗教の対立を仲立ちするものがあるとすれば、それは仏教という教えなのじゃないだろうか。というのがこの番組で五木が行きついたところだった。
見終わってぼくは、ふうん、と思った。

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