少し前に芸大美術館で『高橋由一展』をやっていた。ぼくはあの「鮭の絵」を見たくて行った。ところがである、見どころはほかにあったのだった。
彼の画業をかなり大規模に展開していた。ずいぶんとたくさんの絵画を並べてあった。こうして彼の画業を一望できるのはそうあることじゃないと思う。慶應年間に彼は初めて西洋の油絵に出合ってその写実性に愕然としたという。そして猛烈にその技術を学びたいと思った。そういった彼の執念が見事にその絵に現れているのが面白い。
日本画としての絵は説明的で平面的だ。それはある意味では理詰めの絵画である。彼は油絵の具をもって理詰めの絵画を描いた。
しかし西洋の油絵はルネサンス以降はもう理詰めではなく印象的感覚的な手法で写実を追及していた。そのリアリズムはまさにそこにあるように描くことを第一にしてきた。リアリズムというのは感覚的であって決して理詰めではないのである。イコンとしての中世絵画からリアリズムとしての絵画へと移り変わった。しかしそのリアリズムは実質を描くというよりもそう見えるように描くというリアリズムである。
だから影の描き方が重要になる。言いかえれば光の描き方ということもできる。光によって浮き出てくるそのリアリティだ。まさにそこにあるかのように描くのである。
ところが、例えば中世の「イコン」というのは実在を描くのである。そこにドシンとそのもの自体が存在することを描くのだ。だから往々にして見えるように描いてはいない。その描いた人間の思考がそれを描くのである。だからそのリアリズムは考えようによっては写実よりもはるかに実存的でありリアリティがあるのである。
由一のリアリティとはそういうもので、決して写実性があるのではないが妙に現実感を持っているのだ。
簡単に言えば影を描かないのだ。モノは影を描けばそこそこ写実性を獲得できるようになっている。さっさっと影をつければものは立体的に見えるしそういう簡単な手法でリアリズムを追及できるのだが、しかしそれで存在感を出すのはよほどの技量がなければ薄っぺらな絵画に仕上がってしまうのだ。
したがって絵画の存在感というのはおぼつかない技量でとことん追求したものにこそ現れてきたりするのである。彼(由一)の絵画はその類であって、他に例を挙げるとすれば素朴派といわれるルソーなどの絵画が異様な存在感を持っているのもそういうことだと思うのだ。
由一は影を描かない、いや描けなかったのかもしれない。それはたぶん彼が日本画を描いてきた画家だからである。半分ほども陰に隠れてしまった人物など日本画の美意識にはないのだ。肖像画は、だから見える顔の表情をすべて描きいれることが当たり前なのだった。それで彼の描く人物は異様なまでに存在感のあるおよそ写実とは程遠いものになっているのだ。
しかしそれは今となっては拙さではなく絵としての自己主張にしか見えないところが面白いではないか。彼が油絵を、手法として自らのものにしえなかったことがかえって彼の絵画をまたとない独自のものにしたのだった。
彼は見えるものをすべて描くことによって写実を狙ったのだがそれは写実にならず異様に存在感のある見事な絵画となったのである。

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