この半年ブログとは縁のない生活だった。それのみならずネットでのやり取りやテレビさえもぼくの生活から締め出していた。もとは家庭の事情で仕方なくそうせざるを得なかったのだが、どこかでそういうことをしたいと思っていたことも確かである。
結果、ぼくにとって必要なものとそうでもないものが幾分はっきりとしたように思う。これは瓢箪から馬が飛び出したということだろう。
要するに気づいてみればあまり必要でないものを延々と見続けていたのである。日々のニュースが大切かといえばそうでもないし、どのみち何も取材をしていないネタをただ流しているだけというのが本当のところだ。例えれば、ちかごろは冤罪のニュースに事欠かないが、その当時はあたかも「彼」が犯人かのように報道してたのは、当のそのニュース番組なのだ。いい気なものだ。
半年間、世間の出来事を知らずに生活していても何も困ったことにはならないし、大きな事件は人がそれとなく教えてくれる。そのあいまいなうわさだけで十分なのだ。どだい元のニュースそのものが「うわさ」をもっともらしく伝えているだけなのだ。国会中継などを見るとそれを伝えるニュースは全く違った解釈で報道されていることがわかるはずだ。要するにニュースを見ただけ目が狂ってしまうのである。中継を見る暇がないというならいっそ何も見ないで自分独自の意見を持つほうが健全なのである。
テレビから遠ざかれば逆にそれだけ世間のありようがわかるというものだ。
だからといってそれが良いことだと言いたいわけでもない。つまりそれによってほんとに下らぬものがわかってしまうと、世間はそういったもので埋め尽くされていることもわかってしまうのでどうも厭世的な気分になってしまうのである。なんだかこれはやばいぞという感じなのだ。
俗を嫌うのはいいが、俗世間まで嫌悪してしまうことは本意ではない。これじゃかつて反戦運動をしていたころの世間嫌いと同じじゃないかと、ふと思ったものだ。
しかし今更テレビと付き合う気もなくなったしその必要もなさそうだ。ぼくの知りたいことはテレビが作ったものではなくそこに写っている事実でしかない。そしてテレビは事実を流しているようだがそうではない。それはテレビが解釈した映像の垂れ流しでしかない。
そういうことはほとんどの人は頭では分かっているものの、さて実際幾度となく流されているといつの間にかその解釈以外の眼を持てなくなってしまうのではなかろうか。
だからぼくはニュースなどはハナから信用していないし解説番組もいらない。
それでひっきょう見るものといえばスポーツということになるが、近ごろは目を覆うようなとんでもないスポーツ番組が幅を利かせている。つまりテレビがたいこ持ちのようになってスポーツを煽るのである。
その結果、面白いスポーツでもどうにもいやらしいスポーツに見えてしまい、かえってそのスポーツから人を遠ざけることになってしまうのではないかと思うことも多い。
だからぼくは、好きなものでも実況や解説がでしゃばってくるやつはそういう部分をカットしてみているのだ。あまりにひどいのは音を消して見るなんて面倒くさいこともする。何とも手がかかることだ。しかし大筋はすべてのCMを消し試合の中身だけを見ることで時間は大幅に短縮されるわけだ。
したがって当然のことながら生放送といっても少し時間差のある「生放送」として見ることになってしまう。そうでもしないと実況を楽しめないんである。
因果なものだ。

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