窓から外を見るとひとつのアジサイの花穂が見える。それは6月に咲いたやつで梅雨の雨に映えてきれいな青色を見せていた。それは見事な青だった。そのアジサイはその後もずっとそこに在りつづけて次第に白く退色し、あとは散るのを待つばかりと思っていた。
ところが夏を過ぎると枯れるはずの花びら(じつはガク)が緑がかってきたのだ。ガクはいちど命を終えたように装いながら、そのじつ夏になると元の葉っぱの記憶を甦らせたようである。こういうのを先祖がえりというのだろうか。
その頃ようやくぼくはアジサイという花は散らない花なのだと気がついた。そうして身の回りにかろうじて生き残っているアジサイたちを眺めて、はじめてぼくは、こいつは散ることを知らない植物なのだと分かった。
今まで彼らは、花が終わったあとには目も向けられず、ぼくも見なかった。おまけにほとんどは来年のためにすぐ刈り取られてしまっていたのだ。アジサイの花は一年目の茎に着くというので用なしになった花飾りは消されてしまうのだ。
いったい我々にとって花という存在はただ盛りに目を楽しませるだけなのだろうかと思った。
というのは、ぼくは近ごろ花瓶に刺した花がだんだんと変色し、散っていき、残った茎と葉が一体どういう風になっていくかを少し楽しみにしているからだ。そのうち花瓶の中で気丈にも根を出していつまでも生き生きとしているやつの逞しさに感心したりもしていた。
思えばすっかり枯れてしまった花は、好事家にはドライフラワーとして珍重されているのだった。それなのに枯れ始めというやつにはどうも人は辛い点をつけるらしい。人も中年になると見向きされなくなり老齢になって再び一部の人の尊敬を取り戻すようなものだろうか。
夏を過ぎて、その緑がかってきたアジサイは明らかに血のかよった生き物だった。まだまだ茎を離れようとする気配もなかった。そしてそのままぼくは毎日の窓枠の外を楽しみにしていたのだ。
すると秋になりそのアジサイは周りの木々に波長を合わせるようにして徐々に赤くなってきたのだ。もう世間の仲間はすっかり姿を消してしまい、季節は彼らの存在を忘れている。まさか梅雨時のアジサイの花がまだまだ命脈を保っているなどと誰が思うだろうか。もうとっくに11月を過ぎているのである。
ところが、その冠がすっかり紅葉したのである。
いったいどういうわけだろうか。花が紅葉するとは!
それではたと気付いたのだ。先日山歩きをしたとき確かにぼくは山で赤味がかっているガクアジサイの花を見た事を思い出したからだ。その時は「山では」アジサイはこんな風になるんだとしか思わなかった。しかしこの種はどこで咲いたとしても実はこうなるはずのものだったわけだ。
花がいちど終わってガクは葉に戻り、そして秋になると葉としての役割をとげて紅葉する。
改めてアジサイという花のしぶとさに驚いた。


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