「原発やっぱり、ダメ絶対」というコール・アンド・レスポンスがまだ耳に残っている。
4月10日のデモ当日に歌われていたフレイズのひとつである。これは例えば、七五調の歌やラップ風の歌の最後に歌い手が「原発やっぱり」というと次に周りの面々が「ダメ絶対!」と返すのである。これが延々と続きまるで終わりのない言葉の連続になる。
こういう歌は世界どこにでも自然発生的に行われてきた歌のひとつだろう。何もアメリカのゴスペルだけの専売特許ではない。過去何度も起こった民衆の反乱のときに歌われていた叫びのような歌は多分こんなものじゃないかと思っている。
まさに高円寺の反原発デモはそんな風に、叫びにも近い歌が多かった。
実際もうぼくらは怒りの声の中にそんな叫びのような声を聴くのだ。若者はただ音楽にあわせて踊っているわけじゃないのだ。その中に魂の叫びが入っている。今度ばかりは若者たちは直感的になにかのっぴきならないものを感じてしまったようだ。ぼくには彼らの歌がそう聴こえるのだ。もちろん彼らだけでなくぼく自身ももう口だけで反対を唱えているのじゃないことに気付いている。
今日も地震があった。異様な多さである。一昨日昨日今日とたて続けに揺れた、それも一日に何度も。不気味である。こう頻繁に地面が揺れると心が縮んでしまう。東海に来るのじゃないか、そしてそのときはいったいどうなるんだろうという不安だ。東海原発と浜岡原発に挟み撃ちにされ身動きできないうちに東京は地獄と化すのじゃないだろうか。
そういう、今までは妄想としか思われなかったようなことが現実に起きてもまったくおかしくない事態に今初めて気付いたのだ。それはぼくだけじゃなくたくさんの人、特に子供を抱えた人たちに恐怖を与えている。
そしてついに、昨日、あのチェルノブイリの規模に「フクシマ」が到達してしまったということだ。レベル7だという。もう思いもしなかったことが起こりつつあるのだ。ニュースで流された管首相の「改善されている」という演説が空しくひびく。もうそんな事をいまさら聞きたくはないという空しさである。
そして「日本はひとつ」の大合唱。これは危険だ。ひとつになって復興を目指すことと、異なった意見を許さないことを一緒にしている。日本人のメンタリティには、団結というと何か違う意見を言っちゃいけないかのような雰囲気が生まれてしまう。これを権力とマスコミが利用して操作するというのが常套の手口だ。
つまり異なった意見とは反原発であり、みんな一緒にというのは主流派の原発を相も変わらず推進する側である。それは推進派の石原がダントツ当選してしまうことでわかる。主流派に合わせることが取りも直さず日本式の団結なのだ。従って「日本はひとつ」といった場合、何も変えてはいけないということが暗黙の約束になってしまうのだ。困ったことだ。
マスコミが国民の見方になることはない。マスコミは国民の意思をひとつの方向に向けようとするだけである。その方向とはもちろん今主流になっている方向でありそれ以外ではない。だから見ている人が凡そ考えているようなことだけを選んで放映するのだ。だからどこのチャンネルも同じような番組になってしまう。
当然、高円寺デモはその線に沿ってマスコミでは黙殺されたのじゃないかと思う。
真の国民の見方にマスコミがなることは無い。これは肝に銘ずるべきことだがなかなかそうは思わないのがフツーだ。もうマスコミの報道はそこそこにしてインターネットで情報を探すべきである。日本の構造はかのチュニジア、エジプト、リビア、中国とまったく同じであり、違うことなんて全然ないということを忘れないように。
「日本ではそういうことは有り得ない」。さんざん聴かされた嘘八百である。

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