源氏物語というのは「どう読み解くか」といったそれぞれの訳者や研究者の思いが、物語の面白さに輪をかけてさらに面白い。だからいろいろの訳者の「源氏」を交互に読んでいて正解だったようだ。
ブックオフという騒々しい古書店が役に立った。なんせ100円の書棚を探せば誰かの「源氏本」が見つかるってわけ。それじゃなきゃこの本に出会うことはなかった。
とにかくさっさと本を選びレジに行って逃げるようにしてこのこうるさい本屋をあとにした。
ところで、源氏が死に、誰が言ったか知らないが「宇治十帖」という宇治を舞台にした「第2章」に入ってから、ぱたりとその熱気がなくなった。さあこれからが大変だ。一日数ページしか進まないのだ。すぐ他の本に目が移ってしまう。「宇治」は限りなく退屈だ。
何ともはっきりしないウジウジした物言いの主人公たち。お姉さまが云々と中の君、大君がどうとかと薫の君、忘れられないの世を捨てたいのと、ああ、イライラする。ってなわけだ。
サテ、なんでこうなんだ?と思った。
でちょっとしたつまらない映画を見ていて気付いたのだ。『恋人たちの失われた革命』、たいそうなお題目だが、実は自分たちのバカバカしい日常を映像にしてだらだらと撮っただけの映像なのだ。映画とも言いたくないこの「映像」、ひたすら退屈なだけだ、と思って我慢している時に謎が解けた。
退屈ついでに映画館の暗闇でしばし目を閉じてふと宇治十帖を思い出し、ああ、コレだと思ったんでした。
コレは「現実」なんだと。
このようにいつもウジウジとものを考えているのがぼくらの現実なのだと。ああでもないこうでもない、ああどうしようか、いっそ消えてしまいたいと。
それをそのまま文にしたら、それはリアルかもしれないが文学ではないし小説でもない。心の迷いをただ書き連ねていたらそりゃ退屈なだけだ。それはただの現実であって読みたいのはそんな現実じゃないのだ。映画とて同じ。
『源氏』が突然「物語」をやめてしまい現実の心模様をただ垂れ流してしまったのが「宇治十帖」ではないのか?あれは当時の現実かもしれないが読ませるものじゃない。
あと5帖というところで頓挫。

0