6月27日から7月3日まで、また石巻市に行っていました。
5度目の石巻市です。過去4回は、印鑑を無料でお彫りしてあげるボランティアでした。600名の方々に喜んでいただきました。
現地のはんこ屋さんも再開したようなので、私のボランティアも一段落かな?と、思っていました。
そのようなときに前水戸市長の加藤浩一さんから「俺も被災地でボランティアをしたいんだけど何が出来るかな?」と電話が・・・。
2人でいろいろ話し合った結果、避難所巡りをすることに。
@ 大きな避難所と小さな避難所の格差が出始めていること。小さな避難所には、物資も思うように届かないことも。
A 喪失感や無力感から希望を失い、引きこもり始めているお年寄りが多いこと。
B 水産工場の魚が大量に腐り始め、はえや虫が大量に発生している。
避難所に殺虫剤などを届けながら、避難所で何が必要なのか「ご用聞き」をしたり、お年寄りの話し相手になろう・・・。
そのようなことで、二人して1週間の支援活動を決めました。
そうした活動を現地で始めたわけですが、その途中に、全校生徒の7割が亡くなってしまった大川小学校によることが出来ました。
【大川小学校の献花台にて】
大川小学校の前には、献花台が設けてありました。
その献花台に、何通かのお手紙が・・・。 未だ行方不明の巴那(はな)ちゃんにあてた、お母さんからのお手紙です。
大きな画用紙に、イラスト入りで書かれた可愛いお手紙です。
巴那へ
お父さんとお母さんはビッグバン(避難所)を出て矢本のおじいさんの家にひっこしました。
矢本の家には、お兄ちゃんと巴那が使っていた物がいっぱいあって、2人のことを思い出してばかりいます。
お兄ちゃんと巴那には「涙を見せるな!」って言っていたお母さんなのに、お母さんはすっかり泣き虫になってしまいました。ゴメンナサイ
巴那は「大きくなってもお嫁さんに行かないでお母さんのそばにずっといるよ!」と言ってくれたのに・・・
ずっといっしょにいられるはずだったのに・・・・。
今日もおばあさんとお母さんは巴那に会いに来ました。
ここに来て、巴那と同じ空気を吸っていたくて・・・・。それだけでいい。
でも、やっぱりもう一度、巴那の声が聞きたい。
巴那の笑顔が見たい。
行方不明の娘が帰ってくることを信じて、帰ってきたとき迷わないように、その親心に涙が出て、止まりませんでした。
加藤浩一さんと、その献花台の前で、いい年した親父2人が、大きな声で泣いている姿は、まわりにいる人にどのように映ったか?
学校の裏側では、今も警察の方が、列を組んで不明者の捜索をしている姿が印象的でした。
何で80人近い生徒さんが亡くなってしまったのか?
学校の裏には、小高い山がありました。
「避難しろ!」と声がかかったとき、先生たちは、その山は足下が悪いので、近くの北上川の堤防に逃げるように誘導したそうです。
もし、私がその現場にいたら、同じようにしたと思います。
しかし、河口から5キロも離れたところですら、その堤防を遙かに超えた津波が来たというのです。
現場の一瞬の判断が、いかに大切なのか?よく解りました。
我が、エンジェルスだって、いつ何があるか解りません。
そのためには、災害時の「非常マニュアル」作成しておかなければならないと痛感しました。

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