1964年10月 私は小学6年生。
東京オリンピックの開会式に感動し、将来は何でもいいからスポーツ選手になろう・・・と決意していた。
この東京オリンピックで、マラソンの円谷幸吉選手を知ることになる。
テレビで見た、そのマラソンのラストは、今でも目に焼き付いている。二位で、ゴールである国立競技場に入ってきた円谷選手は、すぐ後ろにヒートリー選手が迫ってきていることを知らなかった。
ともすれば、当時、円谷選手より有名であった君原選手でなく、無名の円谷選手が二位で帰ってきたのだから、それはすごい歓声だった。ほぼ同時に、国立競技場に三位で入ってきたヒートリーに気づかなかったのである。
最後、トラック上で抜かれて三位となってしまった。
彼は、後ろを振り向かなかった。レース中、彼は、決して後ろを振り向くことはしなかった。どのレースでも同じだった。
それは、彼が、小学生の時にさかのぼる。駆け足の早かった彼は、運動会でいつも一位。ある時、後ろを気にしながら走った彼を、親父さんが怒った。
「男は、一度走り出したら後ろなんて見ちゃダメだ!」軍人あがりの父親の言うことは、何でも聞かなくてはいけなかった。
無名の新人が、一躍銅メダル。日本中が沸き返った。
次は、メキシコ五輪。誰もが金メダルを期待した。
その彼が、メキシコ五輪の年の正月、自殺をしてしまうのである。
父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
彼の遺書である。
私は、今まで、このような遺書を読んだことがなかった。
遺書と言えば、言い訳や、他人に対する恨み辛み。そのような文言は一切無い。
ただただ、感謝の言葉が並べられている。
体調不良、婚約者との婚約破談、次期五輪に対するプレッシャー。いろいろなことが重なって、そうなってしまうのだが、人生でも彼は、後ろを振り向かなかった。
前だけを見つめ、何とか周りの期待に応えようと必死で、前だけを見続けた。
そして、走れなくなってしまうのである。
辛いとき、苦しいとき、人は、後ろを向くのも必要かも知れない。
楽しかったことや、うれしかったことを思い出し、そして明日に繋げていく。
彼は、最後まで、後ろを振り向くことをしなかった。
話は変わるが、時々、こう言われることがある。
「エンジェルスを20年近くやってきて、すごいですね・・・。」
でも、今、思う。
何年やってきたか?でなく、何をしてきたか? それが大事のような気がして仕方ない。
これからのエンジェルスを考えると、ここいらで振り向くことも必要なんじゃないか?
今までで良かったのか?間違ったことはなかったか?
少し、じっくり考えてみたい。

0