仏教でいう『極楽浄土』は一般的には理想郷や死後の世界についての概念だと考えられている。しかしそれは大きなまちがいである。浄土とはいのちの帰すべき平等の世界を表現したものであって、それは『ある』『ない』という問題の概念ではない。
帰すべきところを明らかにすることによって、現実の生を問い続ける原理を獲得し、未来を方向付けたのである。私たちは過去を引き継ぎ、現在を積み重ねることによって、未来が開かれていくと考える。仏教の時間概念は『去来現(こらいげん)』。現在は過去と未来によって限定されている。過去を受け止め、願うべき未来が明らかであるからこそ、現在の選択が可能となる。
それが生きるということの道理である。ところが、いのちの帰すべきところを失った時、現在の生を問い続ける原理を失い、現在の選択は生きる者たちの都合に委ねられることによって、未来を失ってしまった。生きる者たちの都合とは必然的に、損か得か、金になるかならないか、楽か楽ではないかという人間の愚かなものさしである。
≪原子力行政を問い直す宗教者の会刊『総ヒバクの危機』より≫
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宗教倫理とは、自己の存在を解き明かした上で、他者・自然と真摯に向き合うことである。ここに参加する宗教者は、過去の戦争を止められずむしろ協力した宗教者の懺悔と責任をモチベーションとしている。弱い立場の人や地域に危険を押し付け、隠ぺいと改ざんによって利益を貪るシステムの上に、無関心と引き換えにした快楽を餌に推進されてきた原子力政策をそこに重ね合わせている。そして、その欺瞞と、地震に対する脆弱さを指摘し、過酷事故の危険を訴えてきたにもかかわらず、力及ばず、福島の事故を引き起こしてしまった。そういう思いで、3月11日を前に、宗教者核燃裁判を提訴するのである。

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