「モッタイナイ」という掛け声が盛んです。地球の未来のため、環境保護のためにも、いのちを大切にする日本人の古来からの文化と心を取り戻そうというキャンペーンとも聞こえます。確かに良いことだと思いますが、さんざん消費を煽ってきて、ホンネはエコノミックアニマルな輩がウヨウヨいる中で、情緒的、ご都合的な浅薄な流行で終わらせないために、少し深く、あるいは角度を変えて考える必要があります。
一年以上前の古い話ですが、ある平和関係のMLのお仲間で、翻訳家・通訳者で環境ジャーナリストでもある枝廣淳子さんのコラム“幸せになる「もったいない」話”
http://premium.nikkeibp.co.jp/mirai/column/edahiro/03/index.shtml#topを読んで、枝廣さんにコメントをしたときの文章の一部です。
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(前略)
仏具や人形のようなスピリチュアルなものに限らず、すべてのものに「いのち」を感じるという日本人のメンタリティは、四季という循環と再生のリアリティのなかで、アニミズムや仏教思想を背景に深まっていったことは間違いないと思います。
「供養」という行為に至るのは、感謝というよりむしろ罪とか畏れという、漠然とした不安がそうさせた面も強いとは思いますが、いずれにしろそこにいのちを感じるのは「願い」があるからだと思います。まさに丹精こめてつくられ、天地が育み、単なる偶然の積み重ねではない、連綿と繋がってきた願いの結実こそがいのちの正体だととらえるのです。
話は飛びますが、「いただきます」というのも日本特有の言葉ではないでしょうか。これは作ってくれたりご馳走してくれた人に対して言うものだと思われがちですが、本来は食べられようとしている「いのち」に対していう言葉です。
それが自分の口に入るまでの因果に思いを馳せ、自分がその命を頂くのに値するかを自問し、余計に貪(ぬさぼ)ることなく、健全な身体で、正しい道を修める意志をもって「頂く」わけです。そのいのちを頂く罪を正面から見据え、その頂くいのちの願いを自分の中で力にしていくのが供養だといえます。
さて、ここからが「宗教」の話です。涅槃経の「一切衆生悉有仏性」という教えからきたのか、はたまた八百万の神的な直感からきたのかはともかく、単にすべてのものにはいのちがあるという「宗教観」「宗教心」に止まることが、日本人の危険性だと思います。私が坊主の説教で、「だから感謝しなさい」と終わる説教を聴くととても腹が立ちます。(まだ悟ってないからかな)それはまさに支配者の道具になるからです。
その道具にならない主体性が、本来の人間にとっての宗教です。キリスト教も権力の道具になってきた歴史はありますが、個人の神に対する絶対的な信仰が基本であり、そこには邪悪な権力が付け入る隙はないはずです。仏教で言えば、おかげさまとかつながりのある他の全てのものへの感謝とかではなく、あらゆる他者のいのちの願いを背負った自分の可能性(仏性)と責任に目覚め、理想(ビジョン)を持って生きる「生き方」として宗教を語ってもらいたいというのが私の願いです。
仏教の目標は覚りであり浄土です。それは知性と理性とそして行為によって到達されます。日本人の心というと、桜の花が散り行く儚さを美学として、いきなり大和魂に飛んでいくのは、なんとなくの宗教心が権力に支配されやすいことの現われではないでしょうか。ビジョンと意志が薄弱なために、平和憲法を捨て、戦争屋に絡めとられてしまうのではないでしょうか。
鎌倉の民衆は、西方浄土、法華の浄土をめざして念仏や題目を唱えるという形で、自らが主役に躍り出ました。今の私たちには、本来、それ以上のうねりをこの世界に起こせないはずはありません。
(後略)

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