2013/9/26
「アシール地方と聖書の世界 その2」
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
紀元前5世紀、ギリシアの歴史家ヘロドトスは次のように書いている。
「このフェニキア人は自らが伝えるところによれば、
古くは「紅海」辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」
管理人注:弁証法の父と呼ばれるヘラクレイトスは一説によると聖書の創始者であると囁かれる。
またアーノルド・トインビーでさえキリスト教をシリア以前に遡ることをしていない......
『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる〜〜〜もっとも,この大母神の究極の起源を探ってゆくと,アナトリアのペシヌス(ガラテア地方の都市)でキュベレーとなり,ヒエラポリス(シリアの北部の町)でシリア女神De Dea Syraとなり,あるいはまた,遠く離れた北海やバルト海の聖なる島の森の中で,ゲルマン語を話す人々に崇拝される地母神となる以前に,元来シュメール世界においてイシュタルの名で知られていた女神であることが判明する』(Study of Historyサマヴェル縮小版より),と.......サバ王国の主神が月の神Almaqahであったことも繋がってくる。イルミナティではそれがローマの神サートウルヌス信仰に繋がっていく。それはモロクのことである。
紅海沿岸の歴史『黒い王妃イアフメス・ネフェルタリの秘密』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31072685.html

ヌビアの王女を描いたミュージカル『アイーダ』.....『アイーダ』 (伊: Aida) は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲したオペラ『アイーダ』を元にしたミュージカル。
http://www.youtube.com/watch?v=sc6gTohFAdo
紅海沿岸の歴史『ブラック・ファラオ』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31116877.html
紅海沿岸の歴史『クシュ vs アッシリア』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31125022.html
紅海沿岸の歴史『クシュ王国』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31145559.html
紅海沿岸の歴史『カンビュセスのクシュ遠征』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31160930.html
紅海沿岸の歴史『王殺しとメロエの女王』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31201671.html
紅海沿岸の歴史『驚きのメロエ文字』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31225940.html
紅海沿岸の歴史『サバ王国』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31255058.html

こちらのサイトより拝借 ↓(上記管理人が....です)
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/012_2Ysennsyokutai_no_bunnpu_to_keiro.html
これはアラブ首長国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
人類の出アフリカは定説より早かった?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110128001
(January 28, 2011)
管理人注:過去ログ:アダムとイブの世界はエチオピアだったにあるように現在の聖書では恐ろしい改竄がなされている。これを指摘しているのは恐らく私だけでしょう。あるいは聖職者と言われる人たちが見て見ぬフリをしているのか?ではどういう改竄か.....
拙稿:聖書ものがたり・ローマの信徒への手紙から黙示録までを参照
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/152.html
ENUCHがEUNACHと明らかにある意図をもって改竄された使徒言行録。詳しくは拙稿「失われた時を求めて」参照。
管理人注:その『失われた時を求めて』の魚拓は......
http://megalodon.jp/2009-0318-0258-43/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/289.html
なのですが,クリックするとすぐに消えてしまうという恐らくキリスト教の関係者によるものでしょう。それほど暴かれるのを恐れているということを物語っている。つまるところ競争者のうちの一人がほかの競争相手を滅ぼして,”唯一まことの神”として崇拝される資格を確立したのがキリスト教だったのですからね。でもそれも2150年の水瓶座までの話。
コロサイの信徒への手紙でグノーシス主義の異端に攻撃されていることを嘆き,エノクを宦官(去勢された人の意味)とすることによって表の舞台から消し去った(エチオピアがアダムとイブの舞台であることも含めて)。これによってパウロはキリスト教のスターとなった。木村喜一氏の著作にもこの指摘はないし,ありとあらゆる聖書の書評にENUCHをEUNUCHと改竄したいやらしさを批判した文章はない。

ETHIOPIANS.......COME TO JERUSALEM FOR TO WORSHIP
Now an angel of the Lord said to Philip,"Go south to the road-the desert road-that goes down from Jerusalem to Gaza.So he started out,and on his way he met an Ethiopian eunuch,an important official in charge of all the teasury of Candace,Queen of the Ethiopians......
さて,主の天使はフィリポに,「ここをたって南に向かい,エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から,エチオピアの女王カンダケの高官で,女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が,エルサレムに礼拝に来て,帰る途中であった。<使徒言行録8:26〜28>
Book of Ethiopian Enuch(エチピア語エノク書)は偽典とされたが,あくまでEnuch をEunuch(宦官=去勢された高官)として位置づけている。第一エノク書,第二エノク書はキリスト教の正典であったが偽典とされた。それによってすべてダヴィデ崇拝に取って代わってしまった。ダヴィデの曽祖父ポアズは異邦人のモアブの女ルツからダヴィデの祖父オべテをもうけた。
マカベア書(聖書外典でアポクリファに収められている)のなかに伝えられている,あのおとなしい殉教者たち〜老教法学者エレアザルや七人の兄弟とその母〜がパリサイ派の精神的先祖であるが,このパリサイ・ファリサイ=ファリセー(Pharisees)というのは"分離する者”という意味であって,ラテン語系の表現に直せば”Seccessionists"とでも訳すべきか,彼らがみずから名のった名称である。このプロレタリアの"武装した力の人”がおさめた直接の物質的成功が,それは,後世の人びとの目を眩惑した。イエスにもっとも近い弟子たちでさえ,かれらの師が自分の運命を預言するのを聞いてあいそをつかし,その預言が事実となるに及んですっかり打ちのめされてしまったほどである。(管理人注:今日残っているパリサイ・ファリサイ派の中でも敬虔主義者のエノク書,ソロモン詩篇,モーセ被昇天はいずれも旧約外典となったが特にエノク書が外典になったため聖書はダヴィデ崇拝となってしまったのは残念なことです)

今回からは、1980年後半頃、カマール・サリービーによって著された本「聖書アラビア起源説」を取り上げようと思う。本書では、ヘブライ語聖書の地名を詳細分析し、聖書で語られている世界そのものが、シリアやカナンといった地域の出来事ではなく、西アラビア半島のアシール地方やその南のヒジャーズであったという説を唱え、世界中に衝撃を与えた本だ(タブン)。
この本でも上記のヘロドトスの引用が載っているのだが、「紅海」をアラビア湾やインド洋も含めた広範囲として解釈するする方法や、この部分に関しては彼の勘違い・・・というような都合のよい見方をしている研究者に対して疑問を呈している。
その本の内容を紹介する前に、これまでの流れから、イエメンをはじめとするアラビア半島南部地域について少し調べることから始めようと思う。
さて、前回の記事で1949年から1950年にかけて、イエメンのユダヤ人を救出するために行われた作戦『マジック・カーペット』を紹介したのだが、ここで少し、
なぜ、イエメンのユダヤ人なのか・・・について考えてみよう。
管理人注:イエメン:捨てられたユダヤ人の村の風景
http://jp.globalvoicesonline.org/2012/11/27/18107/
イエメンのユダヤ人で検索すると......
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

マジック・カーペットでイスラエルへ空路移動させられるイエメンユダヤ人たち
イエメンに居住するユダヤ人は、古来よりのユダヤ教の教えを伝統的に保持していると言われ、ヘブライ語聖書を朗読する際にも、伝統的なヘブライ語の発音方式を用いているという。ウィキペディアによれば、マジック・カーペット作戦後イスラエルに移住したイエメン系ユダヤ人は、彼らの伝統的な発音方式を守り続けているという。
どのくらいの伝統があるかというと、一般的には紀元6世紀から11世紀頃のバビロニアのユダヤ人のヘブライ語から派生したと言われているが、彼らがこの地にディアスポラを築いたのはもっと以前の話になる。
管理人注:ディアスポラ・預言の終焉
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2096
彼らはいったいどこから来たのだろうか ?
1.
旧約聖書によるとソロモンの時代にユダヤ人がアラビア半島地域に移住したとされ、今日のアラビアの地名であるWadi Jauf やWadi Sirhanと同一視される。
2.
“シバの女王の求めに応じてユダヤ人の職人がイエメンに赴いた”という説もあれば、そもそもシバの女王がソロモンを訪れたのは、彼の叡智についてユダヤ人商人を通じて知ったからだとも言われている。乳香などの交易関係がイスラエルの地と南アラビア半島地域に確立されていたのは、聖書の記述からもうかがうことができる。
3.
口伝によれば、ヘロデ王の神殿が破壊される42年前、紀元前722年頃にイスラエル王国の衰亡がはじまった頃にアラビア半島南部への移民がはじまったとされている。伝承によれば大予言者エレミヤに従って、7万5千人のユダヤ人がエルサレムからイエメンに移住したとされている(ウィキペディア参照)。
こうした様々な伝承は大変興味深い。問題はその伝承の信憑性というよりも、ユダヤ人のディアスポラがそこにあった事実だ。そして、オリジナルに近いヘブライ語を継承しているイエメン系ユダヤ人の起源をめぐっては、聖書の記述以外にそれを説明するものはほとんどない。
より科学的な検証によれば、アラビア半島南部に移住したユダヤ人は同一の故郷を持っていたというわけではない。先住民としてそこに住んでいたイエメン系のユダヤ人に加え、古代イスラエル王国、バビロニア、ペルシア、エジプト、シリア、そしてスペインや北アフリカなどからも入植があったようだ。
考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている。4世紀半に栄えた後期ヒムヤル王国の時代には、国家として一神教を崇めた時代があったというが、それがユダヤ教であったのかは定かではない。
ヒムヤル王国最後の王(滅びたのは西暦525年)であるDhu Nuwas(Yūsuf ʾAsʾar Yaṯʾar)は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっている(他の説ではその前任者であるMa'adikarib II. Ya'furも)。彼が率いた帝国は、最終的にビザンチン帝国を後ろ盾としたキリスト教国家であるエチオピアのアスクム王国によって滅ぼされることになるのだが、それ以前の歴史となると立証できる資料などの数は非常に少ない。
ただ、この辺りの事情を調べてみると、自分が見ている方角が逆なのではないかと感じる事もある。
つまり、イエメンのユダヤ人は・・・
すでに文明を築いていたメソポタミア周辺やシリア・カナン地方などから入植してきたのではなく、
元々 そこ にいたのでは?・・・と。
つまり、上記ヘロドトスのフェニキア人に対する記述のように・・・
南アラビア半島こそ、
ユダヤ人の発祥の地ではなかったのかと・・・?
とりあえず、地名学的アプローチ以外の限りある資料の中で、南アラビア半島の歴史を一度みてみよう。
古代 南アラビア半島
南アラビア半島は石器時代からすでに人々が居住していた跡が発見されており、新石器時代にものとしては墳丘墓や巨石記念物も発見されている。青銅器時代となった紀元前2500年頃には2つの文化が、イエメン北部とインド洋沿岸地域に生まれたと推測されている。
紀元前3000年頃だ。アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan)と、その息子達24人がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。このカターンはイスラム教初期の時代には、この伝説的なカターンが、旧約聖書のエベルの息子ヨクタンであると考えられていた。
その内、1つのグループはヒムヤドと呼ばれアラビア半島インド洋沿岸地域に都市を築き、他のグループはカーラン(Kahlan)と呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメントとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
サバ王国の興隆
南アラビア半島の古代史において、まず注目されるのはサバ王国だ。旧約聖書においてソロモンを訪ねたという“シバの女王”のシバ王国とサバ王国が同一であるかはまだ立証されていない。

しかしながら、いずれにせよサバ王国は遅くとも紀元前8世紀頃にはイエメン北西地方にサバ人達によって建国されたとみられている。マリブや他の地域において定住した遺跡などが発見されていることから、サバ国の建国を紀元前10世紀頃とみる学者もいる。
建国当初はSirwahに首都をおいていたとされるが、その後、経済的にも文化的にも40キロほど東にあるマアリブ(Ma'rib)が王国の主導権を握るようになった。碑文で確認されるところにおいて、遅くともカリビル1世(Karib'il I.)の治世(紀元前775年頃、もしくは紀元前820年頃)には、サバ王国の首都はマアリブに遷都されていたと考えられる。
Sirwahの遺跡


王国の経済繁栄の基礎となったのは、農業と乳香の取引であり、マアリブによって統制されていた。都市マアリブの周り4、1キロほどが城壁で囲まれていたと考えられ、最盛期には110ヘクタールほどの都市に5万人が暮らしていたとされている。マアリブに住んでいる人々にとっては周辺のオアシスを維持するための水の管理や灌漑施設の建設、増築は最大の関心事であったに違いない。
マアリブの遺跡

歴史的には紀元前1世紀中頃に建設されたマアリブのダムが有名だが、前述の通りマアリブ・ダムの前身となるダムは、すでに紀元前3000年頃からの存在が推測されていて、人口も増えたサバ王国の時代には、それが拡大し、発展した。
スムフアリ・ヤヌフ2世(Sumuhu'ali Yanuf II.)の時代(紀元前528年頃)には、Yitha'amar Bayyin II.の時代(紀元前510年頃)には、ダムは大幅に拡張され全長680メートル、高さ20メートルにもなり、9600ヘクタール、縦21キロ、横8キロのオアシスを潤していたとされる。
都市マアリブの中には数多くの神殿が建設されており、多神教であっと考えられるが、国家の主神としては、Awwam神殿に祀られていた月の神Almaqahであると考えられている。
Awwam神殿

サバ王国の主神が月の神Almaqahであったということは覚えておきたい。彼の添い名は『主の地の牡牛』であり、象徴は牡牛であり、またメイス(棍棒)でもあった。首都マアリブ以外にも、NaschqやSirwahなどにも彼を祀る神殿が建てられた。
また、月の神はサバ人元来信仰していた他の太陽や金星の神とも結び付いており、月の神が最も重要であったと考えられるものの、祈り、神への呼びかけの際にはアッタル(Athtar:金星の女神)が最初に呼びかけられていた(アッタルはもちろんバビロニアのイシュタルやカナンのアシュタルテに対応する女神だ)
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイーマから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
紀元前715年には、サバ王国の支配者であるイタムラ王(Itamra)、紀元前685年にはカリビル王(Karibilu)がアッシリア(新アッシリア時代)に対して朝貢したとの記録がある。
ただし、サバ王国側の資料からはこの2人がどの王にあたるのかは立証できていないが、アッシリア資料のイタムラ王(Itamra)はサバ王国王名表のイタマール・ワタール1世(Yitha'amar Watar I)、カリビル王(Karibilu)はカリビル・ワタール1世(Karib'il Watar I)だったと推測されている。Yitha'amar Watar I.の頃、アッシリアではちょうどサルゴン2世の治世で全盛期にあった。
なぜ・・・
南アラビア半島に栄えていたサバ王国は
アッシリアに朝貢したのだろうか?
本来、新アッシリア帝国時代の地図は以下の様に紹介されている。

南アラビア半島は完全に忘れさられている,
だが・・・
碑文にも残っているのに、なぜ、学者には無視されるのだろうか?
そして約束の地は今......

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2099
「おお!神よ!この犯罪を見に降りてきて下さい!」と叫ぶ生存者の女性。
9月18日の朝、イスラエル軍がキャンプの包囲を部分的に解除した後のことである。


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