2006年のクリスマスにジェームスブラウンは死んだ。先日2010年に出版された『評伝・ジェームス・ブラウン』を古本屋で見つけた。知らなかった。
生前に出た『俺がJBだ』という本は自伝だったがこれは評伝だ。だから彼の真の姿に接近することができるかもしれない。
この本は解説が貧しい。井筒という映画監督が寄せている一稿はまるで解説になってなく単なる紹介記事である。著者のあとがきがない。だからいったいこのステファン・ケクランという人物が白人なのか黒人なのか分からない。黒人の歴史や評伝が書かれたときはその書き手が白人か黒人かは普通の書物では比較にならないほど重要なことなのである。これはもう歴史がそうさせたわけである。
それにしてもJBとは怪物である。良くも悪しくもそうだ。芸術としての音楽を人格で語ることは当を得ていないと思うが、ジェームスブラウンにおいてもそれは真実である。
しかし完全自己中心に生きてきた彼を、どうしても彼個人の思想や生き方があまりにもその音楽性と矛盾するためか、決してその音楽を好きになれないという人は多い。
かてて加えてJBの女性に対する暴力はまったく許し難いものであって、何の共通の利害もなければ彼を好きになる人は皆無だろう。それが彼の音楽を貶めている主要な原因だ。
しかしまったく作品としての音楽を見る限り彼が自分で言うように彼の作った音楽は「偉大」なものである。しかも彼の音楽は一般受けするような音楽ではない。(だから特殊な立場におかれた人以外はJBの音楽をすんなりと好きになるという類の音楽ではないのだ。)
例えば彼の音楽は、楽器も声も歌詞もすべてをリズムに捧げてしまったようなものなのだ。楽器はいつも打楽器のように打ち鳴らす。管楽器も弦楽器もただただ一定のリズムを繰り返しているようだ。そして歌でさえ同じフレーズの繰り返しに過ぎないように聞こえる。ところがそれらが重なり合うと異様な昂揚感が生まれるのである。いったいこれは何だろう。
単純なものこそが魂を動かすのだろうか。人を恍惚とさせる宗教儀式のごとくである。
音楽を作るものたちはそれを以前から知っていた。クラシック音楽といわれるものでさえくり返しの効用を知っている。例えばラベルの「ボレロ」である。
どうも、聴き惚れるということと自分の体が自然に動き出すという音楽の二面性は、一つの音楽にありながら人を二つの類型に分けてしまうようだ。だからじっと聴き入っている人と踊っている人はまったく違う体験を同じ音楽によってしているのだ。もしくはルビンの壷のごとく一方を経験しているときは片方はまったく見えない。双方を同時に経験することはできないのだ。
ところでJBである。
だから彼の音楽がリズムばかりで心象に訴えるものがないのかといえばそうではない。そこが音楽の懐の深いところだ。そしてそれはその音楽に入り込めば入り込むほどに、そこにはいろいろな支脈があることに気づくのだ。そのためにはその洞窟に入らなければならないのだ。外からではその洞窟内の支脈は見えてこないのである。
JBの音楽性とはそのようなもので、その単純さや騒々しさの前で引き返してしまっては決して理解できないのである。だから彼の音楽は聴くというよりも先にその洞窟に入って経験することで大衆性を獲得してきたのだ。だから彼はいつもライブ演奏に戻ったのである。ライブこそ洞窟なのだ。
そしてそのライブ感をレコードにも適用してきたのである。周囲の反対にも屈せずにライブレコードを作ったのもそういうことだった。その当時はライブをレコード盤にするなんて狂気の沙汰だったのだ。しかし彼の思惑かどうかそのライブレコードは、初期の名盤として燦然と、現在輝いているのである。
これだけではなく彼は一種の才能だろうか、突拍子もない行動が、ことごとく先見の明を持っていたとしか言いようがない結果になっているのだ。踊りながら歌う、マイクを振り回す、舞台上で曲芸まがいなことをする、衣装に大金をかける、などなど今じゃ当たり前のことがJBを発祥としているかのようである。
もちろん音楽的にみてもファンクという太い幹を作り出したのは紛れもなくジェームスブラウンなのだ。
のみならずとにかくも彼の「マンズワールド」と言う曲を聴いてみれば歌いにおいても並々ならぬ歌手だということがわかるはずだ。圧巻である。
こうして見ると人間性ではなく、純粋に音楽性だけで今のポピュラー音楽の世界に影響を与えているのはサムクックでもなくレイチャールスでもなくオーティスレディングでもなくダイアナロスでもなくボブディランでもなく、という感じになる。これらの人々は少なからず「いい奴」を売り物にしているからだ。なんといっても彼だけは間違っても「良い人」とは思われなかったにもかかわらず、今の若者を動かしている音楽を少しでもさかのぼれば彼の存在が見えてくるのだ。
つまるところ彼は深いところで「ブルースの人」だったのではないだろうか。
なんとも不思議な男である。

1