街はすっかりコンクリートで固められてしまったが、ぼくはその道路の片隅で固いコンクリートを食い破って出てくる雑草を見ていると、とても嬉しい。これはもう理屈ではない。
また塵ひとつ落ちてない街がきれいだろうか。落ち葉の落ちていない並木道が美しいだろうか。ぼくにとってはただ薄気味の悪い光景としか見えないのだが、そうはいえないだろうか。映画の中のどこかおぞましい未来の風景の中にいるようなのだ。
それを、まるで映画みたい!と無邪気に言うことができない。
そういう光景をかつてのぼくらは「絵葉書の絵のよう」といって揶揄した。
いやいつだってそういう人は大勢いたが、今や人々はその絵葉書のようなきれいな風景を美しいといって疑わない。
そして今、そういう光景はどこの街でも見ることができるようになった。街を綺麗にという号令を何十年と言いつづけて、塵ひとつ無い道路やゴミ籠さえ置いてない公園があたりまえのようになった。ついにそういう願いが実現したわけだ。まったくおめでとうというほかはない。
いまだに日本は西洋カブレを克服しているとはいえない。
西洋の公園にはほとんど雑草というものが見られない。ぼくはそういう公園は好きじゃないが、今の日本もそうなっている。
芝生という妙に小柄な草がどこの公園でも主役を占めている。公園のみならず、河原の土手にも花壇の下草にもちょっとした道端も果ては家庭の庭にも、この矮小な草ははびこっている。
日本にはほかにも矮小な草はいくらでもあるがそういう草を使おうとは思わないらしい。
ぼくにとって芝のあるところが見苦しく思うのはほかの草を駆逐してしまうからだけでなく、人の心にもそういったもの(排除の思想)を植えつけてしまう。つまり芝のあるとことには他の草は生えてはいけないかのような錯覚を植えつけてしまっている。
芝に入ってくる草は「雑草」なのだ。
芝生に入らないでください。これも何十年といわれ続けてきた。
日比谷の公園にそう書かれた杭があると気付き、いったい何様なんだと妙に怒りが湧いた昔のことをよく覚えている。芝生とは人が気持ちよく座れるためにあったのじゃなかったのかと自問した。
西洋の真似をしたがそれは外見だけだった。日本では人を締め出すための好都合な道具として使われたのだった。芝生は進入禁止の暗黙の立て札になってしまっているのだ。
なぜそういう風に日本人は芝生を解釈したのだろうか。それは西洋から来たものはありがたくて踏み付けにするなどとは考えもしない西洋カブレをうまく利用したのだった。だから下草は数ある日本の小さな草ではいけなかったのだ。芝でなければ。
W杯が始まるが、サッカーのピッチがなぜ芝なのかを考える必要がある。芝生は人が気持ちよく踏みつけるためにあるのである。

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