普通ぼくはこういう本は読まない。「何とかのすすめ」などというのは余計なお世話だと思っているからだ。でもブックオフに入って買うものが何もなかったのでふと手にとってぱらっとページをめくったら中村元の文章が目に入った。
日ごろ仏教の話ばかりをしているようなこの翻訳者が一体何を勧めるのだろうかとちょっと気になったのだ。買うものがないときにはこんなことでも食指が動いてしまうものである。
ここには哲学者から小説家までお馴染みの名前があってその数37人、その人たちは「読書のすすめ」とお題をもらっていったいどんな事を言うのだろうかと思ってもみた。
それでさっそく中村元のところをあけて見ると、こういう一節から始まっていた。
「読書によって書物の内容をどれだけ理解しえるのであろうか。」
もうぼくが常々思っていたことそのままだった。ぼく流にいえば「本というものを理解することはできなく、ただ解釈ができるだけだ」という思いだったからだ。
言葉という材料を使ってどれだけの思いや考えや事実を発せられるか、そしてその発せられた結果としての材料(言葉)を見てどれだけの内容を受け取ることができるのか、このように、言葉を仲立ちとした二重の関所を通って人は何かを伝えるのである。
同じ言葉を伝言ゲームのように伝えても10人を経る間にどれだけの誤差が出るかと思うと、事は簡単でない。言葉そのものではなく今度は言葉の「意味」を伝えるのだからその誤差はとてつもなくずれてくるだろう。
その典型が「翻訳」であって、これはもうまったく起源も歴史も違う言葉を、また違った言語に置き換えるのだからたまったものではない。元の意味をつかむにはもう想像力の手を借りなければできようもない。
これに関してはこの本の中で加藤周一が同じような事を言っている。外国の翻訳にしろ日本古典の現代訳にしろ、最後にそれを書いた人の文学であると。したがって名訳というものは元の文のみならず訳した人に帰する文学なのだという。
また、古典を読むことの意味はそこに人間的普遍が現れているからであり、それはいつの時代になっても人というものが関わらざるを得ない宿命なのだ。言い方を変えればいつの時代にも活きている人間性の発露なのだ。
だから自分の中に普遍を見出したくて古典を読むのである。
ところが今のポストモダンといわれる実体のない「人のありよう」はすべての価値を相対化してしまう。
たとえば美を追求して人は長い間「美人画」というものを描いてきた。そこには美というものの普遍性を求める姿勢があったはずだ。しかし価値の相対化というものは「今」美しいといわれればそれもそうだという具合なのだ。つまり画布にアニメ風の顔を欠いてそれが「かわいい!」となるとそれも美のうちなのである。それに大枚の値段がつき、それはそれで良いじゃないか、なんてことになってしまう。
こつこつと石を削ってできる彫刻もアニメのキャラを真似た塑像も、同じフィギュアなのだ。学者はすべてオタクじゃないか、と言わんばかりである。
今まで作り上げたものが崩壊しかかっている。
古典も何もありゃしない。人は普遍を追及するよりも特殊性をアピールしたほうがいける、なんてね。
しかし、それにも理由があるのかもしれない。つまり今までの価値というものは、世界を支配してきたヨーロッパの文化であって見方を変えてみれば、ほらこんなことも言えるでしょ?ということかもしれないからだ。それはそれで確かにありえる考えなのだ。
ぼくらはそんな時代の真っ只中で生まれて生きてきたのだ。だからすべてのものにはそれなりの価値がある、という風な情念がぼくらの中にもある。困ったことである。

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