いつも行く馬立山だが今日は途中から北に折れて菊花山へと歩を進める。この山はいつも気になっていたのだが一旦下るのが面倒でそのまま見過ごしていたのである。
朝は時間通りにはいかず昨晩メモした計画表をゴミ籠に入れて、コーヒーと握り飯を作ってテキトウに出発した。地下鉄で五反田を乗り過ごしてしまったのでそのまま大門まで行き大江戸線で新宿に出た。そこまではいいが京王線に乗り継ごうとしてわけのわからんことになった。京王線には「新線」と「本線」があるというのだ。しかしその違いが分からない。いつの間にかこんなことになっちまっていたのだろうか。
ええい、と本線に乗ってそれがうまい具合に準特急というやつだった。それで何とか高尾に出た。JR高尾駅への乗り継ぎはびったしこんで鈍行に揺られながら一眠りと座った。
ところが隣に来たオヤジがぼくに、なんだかんだ言っても日本は平和なもんだ、と振ってきたのである。ぼくは大体は見当をつけておいて、その心は?と言いながらオヤジの顔を見た。するとオヤジいわく、鉄砲玉が飛んできて死ぬか生きるかを経験しなけりゃ人間はダメだ、と言うんである。この車内にそんな経験をした者は俺以外に一人としていないだろ。と。ことが思ったとおりに展開してぼくはどうも嫌な気分になった。
ぼくはその80を過ぎていると思われるオヤジの言葉を何回も反芻して、それが表すあらゆる意味を探していた。それは何とかその言葉の中に救いを見出そうとしてやったことだけれど、そのために仏頂面のままぼくは返事をしなかったわけだ。その仏頂面に何の意味もなかった。そのうちにそのオヤジはちらちらとぼくを見たがぼくは憮然としたまま眠る機会を失っていた。
相模湖を過ぎて人が空いてきてオヤジはぼくから一人分腰をずらした。そのうちどっかでその人は降りたのだが腰を上げたオヤジは、どうもすいませんでしたと言って立ち上がったのだ。ぼくは、お元気でと言った。
そんなことがあって猿橋駅についたのが10時半だ。
ぼくは靴の紐を締めにぎりめしを一個ほおばって歩き出した。空気はきんとして冷たいが天気は上々だ。土を踏んで林内に入ると嬉しくなる。やっとコンクリートの大地から解放されるのだから。木々もすっかり色が変わって地面は落ち葉が敷き詰められてきた。一時間で御前山に着き明るい展望のなか富士山が薄ぼんやりとくぐもっている。暖かくなったのでジャケットを脱いでザックにつめた。ぼくは道草を食いながらゆっくりと歩き、時々は走るように歩いた。
オトコヨウゾメの葉が濃いエンジ色に染まり真っ赤な実を垂らしている。それなのにまだちっとも散る様子が見えない。しっかりと茎について風に揺れている。ぼくの好きな植物のひとつ。白い花も赤い実もどことなく色気がある。
このあたりで赤い実が残っているのは他にもガマズミとサルトリイバラとノイバラ。みんな葉っぱは消えているかみすぼらしくやっとのことで付いているのである。

オトコヨウゾメの紅葉
馬立山につく少し手前(沢井沢ノ頭あたり)で北の方角に降りる分岐があり菊花山という札がかかっている。いつもはそれを横目で見て通り過ぎるのだが今日はそっちに降りることにした。行程はずっと短くなり大月駅に下山することになる。その間にぽっかりと小さい山がある。それが菊花山である。
小さいが一旦下ってから登り返すので何かと不安だ。不安というのはもし詰まらない山だったら嫌だなという思いである。
しかしそれほどつまらないところではなかった。雑木林の中を歩いて適度の汗を流せる手ごろな山かもしれない。そんなことで誰も行きそうもないような小山(643メートル)にもけっこう人がいた。途中で4人の若い女性グループを追い越して頂上に立つと、展望も良いしまあるい大岩がいくつかでんと座っていてなかなかいい頂である。その岩の上に座って残りのにぎりめしを食いコーヒーを飲んでいると、件の女性たちに続いて二人の中年と年配者の男一人が登ってきた。狭い菊花山はいっぺんに満員になってしまった。こんな山でも意外と人気なのである。
くだりは登山道を楽しむほどの時間もないほど20分ぐらいで舗装道に出てしまう。大月駅は目と鼻の先で疲れた足にはありがたい。この行程は行きも帰りもアプローチが短くてとても便利だと分かった。
新宿からはこれまた京王線を使った。今日は運も良くてどちらも準特急という速い列車だったので明るいうちに新宿に着いてしまった。予定ではここでムシャさんとこの「ビアスポ」というアウトドア・ウエアの店に寄って、預けておいた自転車を拾ってそれで帰ろうと思っていたのだが、残念ながら水曜日は休みの日だった。
仕方なくドトールに入り『月と6ペンス』(モーム)の続きを読むことにした。
で、本を開いてさて読もうかと思ったら後ろで若い女性のとてつもない笑い声が聞こえる。その笑い声たるや常軌を逸している。ざぞ大勢の女たちだろうと後ろを振り返って見るとたった二人しかいなかった。たった二人で見事なアンサンブルを演じていたのである。笑いながら喋り笑いながら相槌を打つという風にいっときの間もなく喋り続けているのだ。
しかしながらそう感心しているわけにもいかない。どうも最近は若い女性の喋りがかつては中年特有と思われていたような地声のうるささと変わらないほどに騒がしくなっている。どういうことなのだろうか。というのは若い女性の笑い声というものはどことなく幸せを感じさせるモノというのがぼくの印象だったのだが、それがうるさくなってきているのである。これは単にぼくが年を取ってしまったということなのだろうか。
だからといってそれがぼくの読書の邪魔をしたかというと一向にそうではなかった。つまり『月と6ペンス』はそれほどに面白かったということだ。どうしようもなく俗っぽく救いがたい人間が度を過ぎると崇高にもなるというほどの物語だが「ブンガク」とはこういう風に面白いものなのかとつくづく思ったものだ。
今日は3時間の山の散策よりもその前後に出会った、たった10分の車内のオヤジと数十分の女性のおしゃべりのほうが、よほどインパクトが強かったというわけである。

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