『愛護の若より―恋に狂ひて』 ボートシアター公演(2016年7月3日)
脚本・演出:遠藤啄朗
弾き語り:説教節政太夫
演奏:松本利洋 村上洋司
出演:玉寄長政 吉岡紗矢 近藤春菜 柿崎あゆみ 奥本聰 リアルマッスル泉
ボートシアターの公演だが遠藤さんの米寿記念と銘打っている。このタイトルは二度目の公演だがぼくは一度目の芝居も見ている。遠藤琢朗の芝居は「説教節」である。ぼくはこの劇団の公演で初めて説教節というジャンルがあるのを知った。古い言い伝えの物語である。しっかとしたテキストがあるというものじゃないらしいが、説教節という言い伝えられたものがあるということだけは確かだ。ジャンルというほどの広い意味ではなくすべての文学の元になったような、いわば今昔物語のようなものだと思う。能というものが上流の階級にもてはやされたとすればこの説教節は庶民の中に語り伝えられてきた生と死の物語なのだ。それはどこかおどろおどろしいアジアの仮面劇の中にその類型が認められる。いわば負のファンタジーなのである。彼はなぜこういうものに心惹かれたのだろう。
今日も帰り際に遠藤さんが言っていたが、こんな芝居を打つのはぼくが初めてかもしれないよ、歴史上。
ということなのかもしれない。だって説教節などというものがあるとはぼくも知らなかったし今のほぼすべての日本人は芝居というものの中にこんなジャンルがあるを知らないだろう。それはあえて言えば妖怪の出どころを手繰るような話なのだ。歴史の中でまさに在ったが、それは英雄物語にもならず悲劇というほどドラマチックではなく、どこかあり得ないような話が、それとなく語り継がれてきた、そんな感じなのだ。
人が生きて死に、それがあまりにも奇異でしかも当たり前のものだとしたらその霊はどんな形であり得るのだろうかという、問いなのだ。一方でそれは能というジャンルに収まったが、庶民が語るものはそこには収まりきらなかったものだ。いうなればきれいごとではない愛と死の物語である。精神文化になりにくいはみ出した文化なのだ。それが土俗的であるゆえに上流階級には受け入れ難かった話なのである。
と、そんなことを感じつつぼくはこの演劇を見て帰ってきたのだった。
考えてみれば遠藤さんはもう十分に妖怪といっていいようなところに足を踏み入れているのではなかろうか。88歳にしてぬえのような元気を保っているではないか。彼の精神を見ると人の精神に年齢などありはしないというぼくの考えが体現されているようで心強く感じる。彼はもともとこのような話の体現者となるべき運命を背負っているのかもしれない。
行きは関内駅から歩いた。ちょうど真夏日というほどの気温の上がりようでとにかく暑苦しかった。日向を早足で歩いたら頭がふらついたほどだ。時間はあったのでそこら辺を歩こうかと考えていたがそれどころじゃなかった。途中のカフェに入ってアイスコーヒーを買って飲みながら歩いたのだ、ぼくには珍しい行動だ。それですっかり中の氷が解けるまで飲んでしまったのだ。
ここもほぼ昔の風情など消えたようで、どこを歩いても今風の決まりきった街でしかない。しかしたまに古いレンガ造りの建物があってアッと思ったが、やっぱりその風景をしっかりした三脚を立ててカメラに収めている男がいた。さもありなん。暑苦しい横浜球場の歓声が聞こえる横を通って歩いていくと真正面に「幸福の科学」などといういかがわしい看板を立てた大きなビルがある。このビルすべてがこの新興宗教の建物らしい、ぞっとしないなと思いながらその前を通ってゆくと地味な建物が目的のビルだった。
神奈川芸術劇場という。頭をとってKAATというのだそうだ。ハイハイ。はっきり言ってボートの説教節をやるような所ではない。しらっとした、人を拒絶するようなきれいな建物だ。警備員のほか誰の姿も見当たらない、そんなビルである。
帰りは石川町に出ようと思って足の向きを変えた。どうも同じところを通りたくはなかったのだ。左に道をとるとツタの葉っぱで覆いつくされた大きな倉庫みたいな建物があり、それを過ぎると人が大勢歩いている。どうもそこが中華街といわれるところらしく雑貨屋や料理店が軒を連ねている。客寄せの声もする、おなじみの記憶の中の風景だった。
それを楽しんで運河をこえると石川町に通ずる商店街に出る。右に足を向けてこの石畳の道を行くと、そうだこれがあの昔の道だと悟った。当時の石川町にはボートシアターの廃船がこの運河につながれていて、この道からすぐにその船に乗り込むことができたのだ。そうだ、この道だった。
今はもうその運河の岸辺はしっかりと封印されている。川は死んでいるのだ。なんか懐かしさと見たくないものを見てしまったという感慨とでぼくは足早に石川町の駅の階段を上がった。

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