準決勝、ベルギーがフランスに敗れる
残念無念というのが感想である。それには訳がある。
あの決勝トーナメント第一戦でのおびただしく見苦しい試合を見て、ぼくは今回のワールドカップの堕落を感じていた。日本が決勝ラウンドに進んだことで今回の大会はまるで大成功だったかのような言説が沸き起こっていた。誰もがそう言えばどこかそおいう良い試合ばかりがあったみたいな気分になるという錯覚だ。
だが事実は反則を取ってセットプレーで勝つことに専念したり、それこそ見苦しい芝居がかった倒れ方で反則を主張してみたり、何だか皆が病気にかかったようになってしまったのである。これはサッカーじゃないと少ない人は思ったはずだ。
そしてわが日本サッカーもかつてないほど勝つことだけに専念していた。まるで憑りつかれたようにだ。グループリーグの第3戦、ポーランド戦、弱小国の悲しさでつい選んでしまったこの時間稼ぎの試合は恥ずべきことかもしれないし、あるいは勝負という世界の常識をこの国もやっと手にした証拠なのかもしれない。ともあれ、これもサッカーであるということに間違いはない。とぼくはそう思った。
しかしである、いくらお試しとはいえ、あのビデオ判定というものが、些細なことを機械的に判定するということがいかにサッカーの美しさを台無しにしてしまうかを明らかにしたはずだが、それをまた良いことであるという言いくらましが横行し始めたのだ。参ったな!
だが、決勝ラウンドの一回戦の最後に登場したベルギー―日本の試合が、この傾いたサッカー気分に釘をさすことになる。それほどこの試合は美しく見事なせめぎ合いを見せてくれた。結果はどうあれこの試合が、それ以降の試合の質を救ったように思う。まさにサッカーが目の前で展開されていたのだ。これこそサッカーなのだ、と。
これには幾分かの注釈が必要かもしれない。ベルギーは明らかに日本を上回ったチームだった。それに対して日本が、まるで勝つよりも違う目的のために戦うかのように振る舞った結果、ベルギーはこのチームとはガチで行こうと決めたかのように、日本のあまりにも正直なサッカーにお付き合いしていた。
その結果起こったのがあの「賞賛すべき」一戦になったのだ。
この試合を境にして審判団は改めて何をすべきか、すべきでないかを認識したのだ。サッカーは細切れのフィルムをつなぎ合わせて出来ているものじゃないのだと。
ぼくはそういう意味で今回の大会からサッカーを救い出したというべきこの試合を担ったことを、日本チームは誇りにしていいと思う。
たった一つしか勝てなかったが、この一つの試合の大いなる影響の名において、改めて世界のサッカーに貢献したというべきだろう。あの試合、あの時点で終止符を打ったことが、その先の試合の質を決定したのかもしれないと。
その一つが、このベルギー―フランス戦だと感じた。
まさに息詰まる一戦、今まで芝居がかった演技をしたンバッペさえこの試合ではそれを封印した。それが試合をこわすことを本能的にか、感じたようでもあった。しかしベルギーは負けた。フランスは強かったしミスがなかった。この一戦がサッカーファンを心地よくさせたことは疑いない。
そしてその一試合前にベルギーがブラジルを破った試合もそうだった。今までのネイマールが勝つために何をするかは注目の的だったはずだ。しかし彼も痛がり演技をしなかった。それほどベルギーは日本戦の教訓を生かし切った試合運びをしていたのである。
この試合のベルギーには威厳があった。姑息な手段を使わなくとも勝てるという威厳があった。
先取点はその結果生まれたといっていいものだった。ベルギーのコーナーキック、ブラジルのフェルナンジーニョはヘディングで跳ね返そうとしたが味方と重なりあってジャンプしたために頭がぶつかりそうになり首をひっこめてしまった。その結果ボールは彼の腕に当たりゴールに吸い込まれた、というオウンゴールだった。近くに敵の姿はなかったというのに。
このミスは周囲を見ていないことと怪我の恐怖感がまねいた自業自得な失点だった。彼はその時目をつぶっていたと思われる。そうでなければ飛んでくるボールを見失うはずがないからだ。その底にはベルギーの重圧感があったと思う。ブラジルはこの一件で浮足立ってしまい、その後、得点を急ぎ過ぎたように思う。
まっとうにサッカーをするということの大事さである。その結果サッカーはより面白くなり、勝利につながっていくと、ぼくは思いたい。

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