すこし雨模様の日曜日、ぼくたちは山歩きのために相模湖駅でおりた。駅の階段を下りると、そこにへばりついている大きな虫がいた。
カミキリムシだが見たこともない色と大きさだ。つや消しの黒い羽根にきっちりとした対称ではない不揃いの斑点がある。この斑点は黄色い色で地のつや消しの黒とうまくコントラストをなしてとてもシックな感じで、その見事な大きさの身体にあいまって堂々とした風体である。頭部の横に小さな角を張り出してあごは大きくこいつに噛まれたら相当なダメージがありそうだ。
さらに大きい目はこれもつやがなくて黒いので正面から見るとどこか凄味のある顔つきである。昆虫の目というモノはいったいどこを見ているかわからないようにできているので、人類の常識としてはどこか恐ろしげなのだ。
足のカギ爪に「食いつかれない」ようにして手に取ってみると腹の横にうすい黄色の筋が全長にわたってついていることがわかる。身体の厚みにもボリュウムがありずっしりとした感じだ。
駅の階段ではこのまま死んでしまうのかな、と思ってビニールの袋に入れてザックの横にくくりつけておいた。このまま家まで運んで行こうと思ったのはこんな大きなカミキリを見たことがないし放っておいてもどうせ死んでしまうのだろうと思ったからだが、少しは躊躇する気持ちもあった。森に返せば何かしらの仕事をするのかもしれないからだ。
その後かれはじっとしたままで袋をかじる気配もなくごそごそと動くこともなくじっとしているので、ぼくは帰るころにはもうひょっとして死んでしまったのではないかと思ったほどだ。
うちに帰ってぼくはその袋の存在をすっかり忘れてしまった。ザックにその袋をくくりつけたままで床にはいってしまったのだ。
夜中にトイレに起きた。
便器に腰をかけた時のこと、ズボンを下ろして一息ついたらぼくのパンツの影から何か動くものがぬっと現れたのだ。どこか昔のトイレで便器から手が伸びてくるという妄想に近いものがあった。この時の驚いたことといったらない。まったく予想していないことが起きるということはそういうことだ。とにかく動くものがパンツの裏から突然現れたのだ。いったい何事が起ったのか全く分からなかったし、ぎょっとしたのだった。
ま、その間は実際にはごくわずかだったに違いなく、ぼくはすぐそれが彼だとわかったのだが、ぼくの記憶は高速で巻き戻り彼がついにあの袋から出てきたのだと了解した。(しかしまた、どうやってあの袋から出てきたのだろうか。それまでは全く袋をかみ切るそぶりを見せなかったというのに。)それがなぜまたぼくのパンツにくらいついていたのだか不思議である。
ところがである、そのときパンツを這い上がってくる彼はぼくの股間にと近づきつつあったのである。このままで行くと早晩とても痛い思いをすることが予想された。カミキリムシの足の食いつきは並みではない。いったんこのカギ爪に食いつかれたらなかなか剥がすことはできない。ことによれば血を見るはめになることもあるだろう。そんなものがあのヤワなところに這い上がってきたら、そう思うとぞっとした。
ぼくはすかさず彼を掴んで剥がそうとするがパンツに食い込んだカギ爪が放さないのだ。もうパンツはテントのように持ち上げられてあとは切れるばかりとなってしまった。引っ張るぼくを威嚇するように彼はギシギシと嫌な音を立てて抵抗する。ぼくは片手でかれを掴んだまま、空いた手にトイレットペーパーをくるくると巻きつけ、彼をパンツから紙に移すことにした。そうして巻き付けた紙を彼の鼻先に持っていき、手を放すとそろそろと彼がパンツを捨てて紙のほうに渡り歩いてきた。ここまではうまくいった。
今度は彼を抑えていた手が空いたのですかさずつながったままのロール状の紙を片手で切ろうとするのだがこんな時ほどうまくいかないのだ。ペーパーはカラカラとつながって出てくるのだ。彼は片手にまいた紙の上から腕のほうに移ろうとしている。いやに元気なのだ。
早く紙を切り離さねば、ええいっと引きちぎった。紙の帯を引きずりながらもついにぼくは解放された片手でパンツを上げ、すかさずかれの身体をつかんだ。彼の足カギは中空に浮いたトイレットペーパーをむなしくかき抱きながら動いていた。ギシギシ。
トイレから脱出したぼくはパンツは上げたもののズボンは引きずったままで台所まできた。なにか入れ物を探したが思いつかず、かつてキムチが入っていた大きなプラスチックボトルを見つけ、その中に彼を放り込んだ。やれやれこれで一安心。
真夜中のトイレの中で起きたことだった。
後で調べるとこのカミキリはシロスジカミキリといい、日本最大のカミキリということである。すごいものを持ってきてしまったものだ。彼は今現在(7月7日)その中でごそごそやっている。

0