テレビで同性結婚の話を面白おかしくやっていた。それでぼくはMさんに、あなたは同性結婚についてどういう偏見を持っていますか、と訊いた。すると驚いたことに、私は偏見なんか持っていません、というのだ。
はて?これはどういう意味だろう、とぼくは思った。同性結婚に偏見などないということなのか、そもそも偏見というものを持ち合わせていないということなのか、と。
しかしこの時に、Mさんは偏見というものを悪いことと考えているのだろうと見当をつけて、偏見が良いとか悪いとかいうものじゃないでしょ?と言った。なぜならMさんは偏見が自分にあるということをきかれて、いかにもけがらわしいという風に即座に否定したからだ。
偏見などと言う実体はない。偏見は自己と他者を弁別する安易な方法なのである。だから人は面倒くさいと思った時には偏見で事を処理しようとするのだ。だから面倒なことには偏見がつきものだ。だからぼくもそれ(偏見)をいつも利用する。
つまり、偏見は誰もが持ち合わせているものなのだから、無いと言われても困ってしまう。
ぼくの聞きたいのは、あなたの偏見はどこにありどんなふうにして現れるだろうかという興味があるだけだ。それを、無い!と言われても困るのだ。
あなたはウンコをどこでどのようにしますかと訊かれて、私はそんなものしない!!などと言われても困るのと同じである。ウンコが汚いものだけと思っている人のようにして、偏見は汚いものと考えているのではないだろうか。
もちろん偏見は汚いものでも悪いものでもない。幸せを感じるためには必要でさえあるのだ。
人が何を幸せと感じるかと言えば、こんなことがある。ある人の見違えるようなさまに出会ったり、フトこの人は案外優し人だったんだと気付いた時の幸福感、ああこの人はこんなにいい人だったのかと思えたときのうれしさ。そんなことが人の幸せの感情なのだ。
こういうことが月に一回でもあれば、その人は幸福な生活を送っていると言っていいだろう。
しかしてその好ましい感情を生み出した転換点のモトにあったものは、その人に対する誤解や偏見だったのではないか。思い込み、予断、無知。
つまり幸せな気持ちには誤解や偏見が働いていたということだ。それが転換されることで人は幸福感に満たされる。
結論。偏見は幸せを産む卵である。
さすれば自分のどこにその幸せの卵があるか、どんなふうにその幸せの卵を抱えているかを知ることこそ、幸せを多く感じる適法なのである。
だからぼくは、Mさんに、同性結婚ということについてあなたの偏見はどういう所にあるんでしょうかと訊いたのだ。
ところでその同性結婚についてだが、こんな自分の身の回りで見たこともなく出会ったこともないことについて、ぼくらができることはまず偏見をもってそれをなるべく理解しようとするしかないのである。始めのうちは、聞き及んでいる風評によって類型化して、分かろうとするしかないのだ。それが善意であろうとである。
ぼくはといえばこれについてはまた違った偏見の持ち方がある。
同性結婚と性同一性(障害)というものは同じものだという感触があるのだ。
そして、ぼくの違和感は「同性」というところにあるのではなく、「結婚」ということにある。なぜ結婚などというものにこだわっているのかわからないのだ。好き同士で暮らそうと思えば、同性でも異性でもかまやしないだろう。そうすればいいのだ。
支配の道具としての一夫一婦制の結婚という制度の中に入ることでいったい何をしようとしているのだろう。
敵の中に入り込んで内側からその壁を崩そうというのなら、大いに期待したい。

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