ぼくらにとって「潜在意識」という概念を初めて学問に登場させた人はと問われれば、フロイトということになっている。だから「無意識」を発見した人がフロイトだと、なんとなくそう思っていた。
つまり無意識、潜在意識などという概念はそう古くないころに生まれたものだと思っていた。
しかしはじめて大乗仏教の「唯識」派(ヨーガ行派)といわれるものを読んで驚いた。
何と、もう仏教が出来てそう経たないうちにインドの無著(アサンガ)世親(バスバンドゥ)の兄弟が唯識派を起こして、ひとが世界と接している相を、それはただ心のはたらきだけだと喝破しているのである。
釈迦が生きている間の教えを原始仏教とすれば、釈迦の入滅後その弟子たちがもっぱら自分が悟ることを目差したものを部派仏教(今では小乗仏教という言葉は理に合わないのでそう呼ぶ。)という。
そして紀元前後に起こった大乗仏教にこの「唯識派」がある。この大乗仏教というのは自分のためだけでなく他人を救うことこそ仏教のあり方、として釈迦の教えの原点に返れという他者救済の行をするようになる。
いわば仏教のルネサンスみたいなもので、釈迦の教えを解釈すること百家争鳴。一気にいろいろな派が生まれてしまった。仏典という類のものが莫大な量になってしまうのはこのためだ。
その中に今回の「唯識派」という人たちがいる。そしてその理論体系は細かく難解である。しかし釈迦の教えを理論付け、発展させるその論理はなかなかユニークなもので、釈迦が言いたかったことはもしかするとそうかもしれないと思わせるに十分だ。
認識することとは外界に世界が実在するのではなく自分の意識の中にあるだけであって、認識(識)しなければ世界は存在しないのだと。だから自分の中の「識」を絶てば世界は消える。それがある意味で悟りであり自我と宇宙(アートマンとブラフマン)の合一であるということなのだ。ぼくは空の思想とはそういうことだと思っている。
識界(顕在するひとの感覚)の6相(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、それといわゆる意識するの6相)とは釈迦の唱えた認識論である。それに加えて無著と世親は、無意識(潜在して現れることのないひとの意識下にあるもの)の相二つを導き出したのである。
それまでの仏教で言われていた6識(眼耳鼻舌身の5識と意識、合わせて6識)の下にそれを統率する、マナシキ、阿頼耶識(アラヤシキ)という、人の意識に現れない「潜在している識」相を導き出したのだ。
これが「唯識派」の真骨頂だ。
驚くのは、それをただ思いついたように出したのではなく、人が外界と交わる仕方(相)を論理的に突き詰めていくと、必然としてその相がなければならないとして導き出したのである。
まったく驚いた。東洋的宗教は思い付きで論理が無いなどと誰がいう?それに比べればフロイトの精神分析法や夢判断などは、始めに答え有りきで論理は後からつけたように思える論法だ。宗教にしてもユダヤ・キリスト教などははじめに神有りきであって、後追いで論理を組み立てている感がある。要するに牽強付会なのだ。
思うに唯識という概念はまっこと心理学であって、ヨーガ行というのはその八つの「識界」をいかに脱するかという修行法なのだった。だから仏教ではヨーガ行が必須の行為なのだ。
翻って考えると心の病は行、加持、祈祷によって治すという方法は今の心理療法そのものではないだろうか。
現在行われているカウンセリングや運動療法を見るとどうもそう言わざるを得ない。まったくもって昔の人がたどり着いたことを近代はいまさらながら繰り返しているに過ぎない。

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