オリンピックは終わった。サッカーもアルゼンチンが優勝した。
さすがに準決勝、決勝ともなると試合のグレードが違う。今までのチームがウソのように変わる。
例えばナイジェリア。
日本とやったあのチームとはまるで違う。スピードといいテクニックといい。懐が深いなと思わせるのはただ身体的に背が高いとか足が長いということだけではなく、試合の仕方に懐の深さがあるということなのだ。
日本とした試合と決勝でやる試合とはやり方が違うのだ。グループリーグの相手に対してはそれなりに合わせてやってきている、相手が強くなればそのレベルで戦えるという懐の深さなのだ。
日本がそういう戦いをできないということは。戦いの仕方がひとつしかないということなのだ。だから強い相手に、と言うよりはバリエーションの違う相手とやるとまるで歯が立たなかったりするのだ。つまり戦い方が均一だから。
均一の戦い方というのはそれなりに評価される。頑張ってるねと。日本らしいねと。
しかし今、「日本らしい」などと寝言をいっているようじゃ期待できないな。なぜ今頃「日本らしい」などと言うのか。オシムがちょいとそんな言葉を吐いたからってオウムのように繰り返すのは止めてくれ。オシムが言うのと日本人が言うのとはおのずから言葉の意味が違ってくるのだ。
日本らしいサッカーなどいらない。もともとそんなものはまだ日本にはない。もしあったとしたら冒険心のない強さのないサッカーなのだ。
今はいかにも日本らしく「ない」サッカーをすべき時なのだ。
つまり、がむしゃらに個人で突破する個だとか、セオリーを無視した試合を構築しようとする監督とか、無駄と思われる無駄ではない走りを追及する選手だとか、そんな個人が出てくるか、出そうとするチームがいなければ、相変わらずのきれいな完成形のサッカーをしようとし続けるだろう。
失敗を恐れ、他人に迷惑をかけることを禁じ、セオリーをはずすことを責め、まるで答えがどこかにあるかのようにして、こうするのが「正解」だというサッカーを目指していれば、もう楽しく強いサッカーは日本には生まれないだろう。
根は深い。
そう、どこかに正解があるような生き方というのは日本の隅々まで行きわたってしまっている。
もうかれこれ45年ほど前から日本の子供たちはそうして教育されてきたのだ。正解を求めよ、と。あるいは次のなかから正解を選べと。今やテレビをつければどこかで必ずそんな番組をやっている。マルかバツかと。
だからスポーツにおいてもそのように教えられ、どこかに理想形があるかのように錯覚してそれを追い求めてきた。
しかしスポーツは破格にこそ面白みと強さがある。今のアフリカ系のスポーツの強さと面白さを見よ。何かといえば「身体能力」が違うという言葉を使い、それでどこか諦めてしまっている。ホントにそうなのか?それだけなのかと思う。
もう正解なんていらない。どう転んでみても今の世界に「正解」なんてないだろう。すでにぼくらはもう正解などどこにも転がっていないことをさんざん見てきたはずだ。

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