「ちょー、大好き」って、おいおい、と思うがそうイヤではない。
もう耳慣れてしまったせいだろう。「ちょー大物」「ちょー過激」もう何でもいいや、勝手にしてくれ。
新しい言葉はいつだってオカシイ。そのオカシサに罪が無ければ笑って済ませるし、無視もできる。ちょーを裁断すれば、無罪である。
ところがこのところ流行っているのは、物事を曖昧にするための言葉だ。言葉というより喋り方だな。流行り口調というか。
この「というか」止めも本来「曖昧口調」だ。
それは、曖昧にしたいから使っているのである。
今言おうとしているのは、本人が曖昧にするつもりが無いにもかかわらず、結果として曖昧になるように仕立て上げてしまう口調のことだ。
たとえば大宮アルディージャの三浦監督。
彼は言葉の最後が「〜かなと。」で終わる言い方をする。聞きづらいことこの上ない。
「今日の試合はこの結果で良いかなと。」と言うのだ。それで終わり、後が続かない。なんか尻の穴がむずがゆい。三浦監督は若い。
ああ、インターネット世代だなぁとおもう。
ネットでの1つの礼儀として人を傷つけちゃいけない、というのがあってそれはそれで良い。ここはみんなが覆面をして人格を隠しているのだから、そうした所で意味無く傷つけるのは良くないからだ。それでなのかどうなのか、このところ言葉尻を濁して断定を避ける言い方が跋扈している。
しかし曖昧口調で言葉を濁したからといって、他人を傷つけない事にはならない。かえって自己保身術のようで、何かいさぎよくない。
話を「ちょー」に戻すと、今のはただ事を大袈裟に言う時に使うだけだ。
しかしそれでは「超現実主義」派の芸術を語るときには困ってしまうのだ。「ちょー現実主義」となると、ただとてつもなく現実的、となってしまうので意味がまったく反対になってしまう。
シュールレアリズムはスーパーリアリズムではない。
現実を超えた非現実ということだ。
人によっては、シュールレアリズムは限り無く現実に近い、それこそ「ちょー現実主義」なのだという人がある(ウィキペディア)が、それは無いだろう。
そんなことはあのシュールレアリズム芸術を見れば判断がつくだろう。飴のようにぐにゃりとした時計や海をめくってその下の犬を覗くこと(ダリ)のどこが現実なんだ?

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