『善魔』 1951年松竹
岸田国士原作
木下恵介脚本監督、野田高梧脚本
三国連太郎、森雅之、淡島千景、桂木洋子、小林トシ子、笠智衆
現実にはありえないような純な男が新聞社に入ってくる。この男は三国連太郎という名で、三国連太郎が演じている。こんな風にちょっとしたおふざけのようなシチュエイションだが、内容はいたって深刻マジメなのである。三国のデビュー作なので名前を売りたかったのだろうか。
ある夫婦の妻の失踪事件を担当した彼は、その女の隠遁先をつきとめようと彼女の実家に行くがいない。そしてそこで出会ったのがその女の妹である。お姉さんは友達のうちにいるよ、と一緒にその友人宅に行くと、失踪した女はそこにいた。
女(淡島千景)は夫から逃げて自由になりたいのである。ところがその女は三国の上司の元恋人だったのだ。(偶然すぎ!)
その関係で上司とその人妻は再会することになるがこの二人、自分の生き方に忠実なあまりひとの心を素直に受けとめられないような人物なのだった。魅力的で、悪い人間ではないがいつも自己保身が先に立って今の心情を行動に現わすことができないのだ。
それに比べて三国という男はまったく正反対の人物で思い立ったら後に引けない激情の男である。
こういう物語はややもすると型通りの大仰な芝居がかった展開になるところだが、そこは木下恵介の腕がこれをリアリズムに変えてしまう。やはり腕の立つ監督である。
三国は人妻の妹であるその少女に恋をしてしまい、仕事も休んで彼女に会いに行くほど入れ込んでしまう。
それは一つは彼女が病弱であることが一因で、彼の正義感は弱いものにとことん肩入れをしてしまうタチなのであった。
それは恋愛以外でも発揮される。
取材した人妻の夫が離婚を渋っていると怒り、上司に恋慕する女が棄てられるとこんどは上司に食ってかかるが、そういう行き過ぎた正義感が「魔性の善」といわれる所以だが、演出がこれを無理なく受け入れられるようにうまい作りをしている。
ついに彼が恋する少女は死んでしまうのだが、三国は死んでも彼女と結婚の形をとりたいと言う。
このシチュエイションはかの『絶唱』という映画でも見られるがこっちが元祖である。昔は純愛の形としてこのようなことがノーマルな表現だったのだ。
こういう非現実をリアリズムにするためにはやはり俳優にオーバーな演技をさせないことだ。そこが演出のしどころなのだとつくづく感じた。
『赤線基地』 1953年東宝
谷口千吉監督
三国連太郎、根岸明美
被占領地における悲劇を直裁に映す語り口である。過剰な脚色も歪曲もないだろうと思える画面に誠実さを感じる。
日本敗戦後、復員した兵士が富士山麓の故郷にかえる途中、バスの中で小ぎれいな女性を見る。彼はどこぞの別荘のお嬢さんかと思うが、ほかの乗客は何かいわくありげに笑うのだ。
彼の村はすでに米軍の基地になっていたのである。そして彼女は我が家の離れに米兵と住む女だったのである。
もはや自分の家を取り巻く状況は一変していたのだった。村は米兵のための歓楽街と化しいまやそれがなければ成り立っていかない村になっていたのだ。彼は精神的に孤立する。
そんな中で彼は戦前の故郷の思い出が捨てきれず、家族やそれを取り巻く友人とアメリカの兵士との軋轢をくりかえすのだった。もう周りはそういった事情をしかたなく受け入れて生きているし、特に女性たちは何かと白い目で見れらながらも身体を張って強く暮らしている。
その変化に着いていけずに混乱する男に、パンパンと言われている離れに住む女は敵意と同情と、ある憧れをもって接するのだ。いまだにこんなかたくなな男がいるのか、という。
女はそんな男に情けをかけるが男は頑固である。
そしてついに彼は故郷を捨てて東京に出るという。その出発のバスの中で、ふと見ると件の女性がのっているではないか。彼が車掌に御殿場までというと女も同じ駅までの切符を買うのだ。男がいぶかしく思う。
女は男に聞こえるような声で、東京に行く列車と接続しますねと車掌にたずねてそっぽを向くのだった。
出会いもそして最後の接近もバスの中という韻を踏んだような作り方が効いている。二人の行く末の余韻を残して。
この映画、男が学生時代恋人だった女性に、再会するところが物語の肝である。彼はその女性が今どうなったか知りたいが怖くて他人に聞けない。彼の言葉によって傷つけられた女がつい、あの子も身体を売っているのよと口走ってしまうことから、彼の心は切り裂かれてしまう。そしてついにその女性が家に訪ねてくるのだが、その場面がヤマだ。
カメラは変わり果てた彼女だけを撮りつづけていっさい男の表情を写さないが、彼女の表情の中に見事に男のうろたえる姿が見えるのだ。この場面はすごい迫力である。
『荷車の歌』1959年
山本薩夫監督
望月優子、三国連太郎、左幸子、浦辺粂子、水戸光子
荷車引きの一代記である。しかし男ではなくその妻のだ。
日清戦争のころ、惚れあって一緒になった夫婦が二人して荷車を曳いて、苦労の末に子供たちを育てる。ともに住む夫の母が、この嫁につらく当たってその子供もいじめられる。
前半はこの嫁と姑の中で苦労する母親の生きざまと、母の唯一の味方になる娘が描かれる。
この気丈な娘はいくらいじめられてもへこたれず母を助けるさまが清々しく描かれている。その娘も知人に預けられ、やっと望まれていた男の子が生まれる時はもう子供が三人になった。また子供がひとり増えて忙しく働きづめの末ようやく荷車引きも軌道に乗った。
新しい家を作ったころに今まで確執の姑が死の床に臥さってしまうが、その機会に今までの苦労を水に流して一生懸命その姑の看病をする妻。その結果ようやくお互いの心が通じ合うのだった。姑も若いころから母ひとりの苦労をし続けたのだった。
しかし時すでに荷車引きは斜陽になってしまい、せっかくの仕事拡張の夢は消えた。二人も年老いて、世話になった人は死に娘たちは女工になっていく。
夫婦仲も冷えて夫は身寄りのない女性を家に住まわせるようになる。また妻の今までとちがった苦労が始まるのだ。
しかしときおり訪ねてくる子供たちはみな彼女の味方であり、夫はだんだん孤独に陥ることになる。そして息子が出征して戦死し、夫も田を鋤いている時に倒れて亡き人になる。
葬式で一家が集ってみれば、戦地で消息不明の末の息子をのぞいては女ばかりとなってしまった。家の外では孫たちが荷車に乗って遊んでいる。
お婆ちゃんが外に出るとその孫たちが一斉に寄ってくる。彼女は子供たちをその荷車にのせ、老いた体だがしっかりとした足取りで荷車を曳きながら微笑むのだった。
その眼のさきで男の声がすると思ったら、何と消息の絶えていた息子が戦地から帰ってきたのであった。終幕。
戦争中そうして女は助け合い我慢しあって生きていたのである。
こういう大河ドラマは、本当はあまり好きではないが、望月優子があまりにも名演技を見せるので見るに値する映画となっている。農村の女たちの群像絵巻である。

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