『女が階段を上(あが)る時』 1960年東宝
監督:成瀬巳喜男
製作・脚本:菊島隆三
撮影:玉井正夫
美術:中古智
音楽:黛敏郎
高峰秀子:矢代圭子(雇われマダム)
森雅之:藤崎(銀行支店長)−圭子が一番好きだった男、だが妻子がいる。
団令子:純子(女給)−金持ちのダンナを捕まえることに専念、結果店を持つ。
仲代達矢:小松(マネージャー)−店の女には手を付けないと言ったが・・。やり手のマネージャーだが、最後には圭子に振られる。
加東大介:関根(プレス工場主)−素朴さを装ってバーの女漁りをする男。
中村鴈治郎:郷田(実業主)−バーの純子に店を持たせる。
小沢栄太郎:美濃部(利権屋)−圭子が一番嫌う男。
淡路恵子:ユリ(圭子の後輩マダム)−自分のバーを持ち一時は流行っていたが、狂言自殺で資金繰りをしようとして誤って死んでしまう。
山茶花究:(バーのオーナーの中国人)
多々良純:金貝(闇屋)
織田政雄:矢代好造(圭子の兄)−気が弱くずる賢い俗物な兄。圭子は彼を毛嫌いしている。あるいは典型的な貧しく不幸な人物。好演している。
三津田健:(ビール会社の重役)
沢村貞子:(ユリの母)
細川ちか子:(元締めの女将)
女給:北川町子(清美)、中北千枝子(友子)、柳川慶子(雪子)、横山道代(みゆき)、
本間文子:みね子(関根の妻)
千石規子:女占い師
若林映子:女給
女の強いところも弱いところも上手に演じる高峰秀子、ちょっと突っ張って自分の生き方を貫いていくような今までの彼女の役柄とはちょっと違う、割り切れないものを抱え込んでしまった女を好演している。彼女の仕事の五本の指に入る出来だと思う。『浮雲』なんかよりずっと秀逸である。階段を上がるの喩えは、勤め先のバーが階段の上にあるということと、女が一人で生きていくという意味を兼ねている。
気位の高い女性で、水商売をしているがその世界の色には染まりたくないという気概を持っている。つまり自分をいろいろにやり繰りして人とうまくやっていくという術に欠けている女である。こんな女性が銀座のママをしているのだからストレスの大きさは並大抵じゃない。いつも戦っていなければならないのだ。
だからある時にふっと弱気にもなり、タカの目で狙っているまわりの人間に蹂躙されたりするのも、もう仕方のないことかもしれない。いつでも辞めてやる、その覚悟あればこそ彼女は何回でも舞い戻るのである。そういうある柔軟さを備えているのだ。
と言いかけて、つまりはそれは高峰の実像ではなかったのか、と思い当たる。この水商売の舞台で繰り広げられる物語はまさに高峰の一代記なのであった。そうやって何回も泣きながら、彼女は映画の世界でやってきたのである。
彼女が泣くのは気位のなせることなのだ。
加東大介の魅力の片りんもない男に、ふっと安住の世界を垣間見せられてついその術中に落ちてしまうくだり。どこにでもありそうな甘い言葉に惹かれてしまった自分に対する怒りとやるせなさが、ついに彼女を甘い夢から引きもどすのである。その怒りの儀式はやはりヤケ酒にしたたかに沈泥することでしかなかったのだ。
そして迷いが去り本物のバーのマダムとなっていくのである。
これはいわば敗者としての気位の高い女の物語なのだ。高級バーの中での腹の探り合いの人間関係で、ただ一人ウソのない自分を持ち続けようとしてできなかった女の話である。水商売の世界の、映画だからできるリアリズムである。そこには写実ではないが、この世界の実相がある。
という成瀬の真骨頂だ。キャストが役者ぞろいでびっくり。

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