『桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)』 1936年PCL
演出: 成瀬巳喜男
原作: 真山青果
脚本: 成瀬巳喜男
撮影: 鈴木博
音楽監督: 伊藤昇
月形龍之介:雲右衛門
細川ちか子:お妻
千葉早智子:千鳥
藤原釜足:松月 伊藤薫:泉太郎 三島雅夫:倉田 市川朝太郎:滝右衛門 小杉義男:桃雲 御橋公:磯野 伊達信:秋葉
これを芸道ものといっていいのだろうか。芸は大したことはないが妙に人気のある浪曲師の話だ。芸の道とは言うがただのわがままな男の一代記でもある。その男が横柄でとにかく、暗い。とんでもなく暗い、狂的に暗いのだ。月形龍之介の鬼気迫る狂人ぶりが凄い。
つまり、この狂気がどこにでも居そうな常識的な男(芸にかこつけて女に甘え威嚇するなど)の中に居座っているからこそ危険極まりない、という意味で凄みがあるということである。わがままの極を行った人物なのだ。実在の男である。
『わが町』(1956年川島雄三)の大友柳太郎もわがままで馬鹿で勝手な男をやったが、これは、どこかかわいげのある甲斐性なしだ。だがこちらの月形龍之介は、これは全くかわいげのない男である。同じ自分勝手でも全く違う世界の人間なのだ。
しかし考えてみればこういう男こそ現実にいそうな人物である。救いようもないが、かわいげがありひょうきんでもある、まるで寅さんのような人物こそ現実離れした男なのだ。だが映画はそういう人間を創ることで救いのあるドラマができるのではないだろうか。この作品の男なぞはまるで映画の主人公としては決して現れることのない人物なのだ。
とにかく異様な存在感である。その意味で月形龍之介の代表作の一つであることは確かだ。その存在感は月形が自分の声で浪曲を全編やり通したということにもうかがえる。決してうまくはないが一流と言い張るとそれなりにそのように聞こえるから不思議、というほどのものだ。
決して笑うことなく、いわゆる強面、一切の妥協と言い訳をしない男である。
面白くもなんともないがこの映画には妙に引き込まれるサスペンスがある。そういう力強さがある映画だ。女を泣かせて我がままほうだいの男といえば成瀬の十八番だが、彼がこのように硬質な男を描くのはめずらしいのじゃないかと思う。
はた迷惑だが壮絶に生きた男の一代記だ。最後まで妻に甘えて(こういう男の甘えは威張り散らすことなのだから始末に負えないが)生きた男の一代記だ。
いつもなら、優柔不断の我がまま男を描く成瀬が挑戦した冒険なのである。
彼の演出でなければ箸にも棒にもかからない映画になる可能性大である。成瀬己喜男、さすがといわざるを得ない。
成瀬の本格的芸道ものには『鶴八鶴次郎』という見事な作品があるが、これは芸達者な長谷川一夫と山田五十鈴という俳優が、夫婦の芸に生きる姿を、切々と歌い上げたものだ。芸人夫婦の芸に生きるからこその軋轢を描いている。しかしこの映画の夫婦は芸に生きるというよりももっと日常の生々しい戦いなのである。同じシチュエイションの二態を見事に描き切った成瀬のすごいところだ。

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