日曜美術館でやっていた「長谷川利行の特集」は面白かった。
かつてまるで漫画の世界のような絵描きが存在したのだ。それはつげ義春を髣髴とする人物だ。しかし長谷川利行は酒を得るために絵を売ったのだ。カネなし、宿無し、芸術への情熱なし。それでその場で即座に油絵を描いてモノと交換したという。おとぎ話のような人生を全うした人だ。
それができたのはひとえに彼の絵画の技術と感覚が優れていたからなのだ。
また、彼の存在そのものが絵画芸術の常識を批判しているのだ。もちろん「絵」を描くことが無性に好きだという(その好きにはいろんな意味合いが含まれるけど)、ことがなければできなかったことだ。
彼の特集を見てまっ先に思ったのは山下清である。彼は充分にある時間を使って絵を描いた。それは絵が好きという本当の意味合いに近い。だが長谷川は有り余る時間がありながらたった一刻(いっとき)の時間を使って絵を描き、それを生きる糧にしていた。これはどういう意味で好きと言えるだろうか。
どちらにせよぼくが驚き、興味を持つのは彼の速描きである。一時間足らずで油絵をこれだけ深い色で画面に定着させるのはすごいなという驚きだ。
だけど一般の画家が速描きするとどんなものが出来上がるのだろうとも思い、想像する。けっこういい作品ができるかもしれない。ただ一般の画家はじっくりと描くしかすべがないのではないだろうか。つまり、それまでそうしてきたからだということかもしれない。
長谷川のように切羽詰まってあとがない状況で描くという場がなければできない芸当だし、逆に言えばそうであればそこそこの画家ならば何ほどかの絵ができるのかもしれない。そんなことを思ったりしたのである。
多分言えることは、長谷川利行がもっとじっくりと絵を描けたなら、よほどいい作品ができただろうということだ。つまりぼくは思う、残された作品を「完成」させることができたならどれだけ良い作品に仕上がっただろう。と。
彼は癌で49歳にして死んだ。時代に沿える精神ではなかった。
ついで辺見庸の『父を問う』(NHKこころの時代)
この人も酒が好きだ。それでなのかどうかはわからないが、長谷川利行も辺見庸も癌である。だけど辺見はモノ言う人だ。それも時代に抗して発言する人だ。だからがんで死んでほしくはない。
彼は文学者であり哲学者でもある。彼の言葉の意味は深いし広い。それが薄ぺらい時代を何重にも重ねて分厚くさせて聞かせてくれるのだ。だから死んでほしくないのだ。
彼の口は重い。今の時代、世界だけでなく日本も同様に戦争というあのおかしな時代に突き進んでいるが、それを誰も実感として感じてはいない。それを彼は案じているのである。そういう危惧感が思い過ごしでなければいいと思う時代もすでに終わったのだ。本当にそういう時代になってきたのだ。
まわりで起こっている現象を逐次あげてみればそのことは明白なのだがぼくらはそれを見ようとはしないでいる。見たくもないからだし、ことによれば杞憂に終わるかもしれないと思いたい一心で眼をほかの雑事に向けてしまっているのだ。それは本当に誰もがそうしている。これはもう事実化し始めていることに眼をふさいでいるだけのことだ。
そしてそういうことを発言する人たちがどんどん追われてきているのだ。もう外堀は埋められているのだ。ある日ドン!と事が起きるまで多分そうしているのだろう。歴史はそうだと言っている。
辺見はそれで、では何ができるだろうかと問うのだ。その答えはない。いや色々のことをあらゆるところでできるはずなのだが、これをすればという決定打なんてないのだ。やはり自分の居場所で、下から現実を見上げることをしていかなければいけないと彼は言うのである。
誰かが我々から言葉を奪おうとしている。そうやって言葉にならなかった思いが言葉をどんどん鋭いものに削っている最中だ。いつか言葉が刃のようにして人に突き刺さるまで。もうその兆候は出始めているというのに。
≪再放送≫
辺見庸:[Eテレ]2017年3月18日(土) 午後1:00〜午後2:00
長谷川利行:[Eテレ]2017年3月19日(日) 午後8:00〜午後8:45

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