『女の中にいる他人』 1966年東宝
監督:成瀬己喜男
脚本:井手俊郎
原作:エドワード・アタイヤ 『細い線』
撮影:福沢康道
音楽:林光
小林桂樹:田代勲 新珠三千代:田代雅子
三橋達也:杉本隆吉 若林映子:杉本さゆり
草笛光子:加藤弓子 稲葉義男:友田警部 加東大介:酒場のマスター 黒沢年雄:バーテン
田代(小林桂樹)と杉本(三橋達也)は隣り合わせに住む二人だが、小林は東京、三橋は横浜に務めているので、東京で顔を合わせるのは珍らしいことだった。その日三橋は妻のさゆりを訪ねたが、いなかった。その夜小林と飲んで帰宅した三橋は、さゆりの友人(草笛光子)から、妻の死を聞かされたのだ。彼女のアパートで死んでいたというのだ。それは小林と三橋が出会った場所の近くである。
小林はまじめな男だが捉えどころがなく、いつも陰鬱な表情をしている。母と子供二人と妻と5人で生活をしている。
この事件が忘れられたころに小林が、実は、死んだ三橋の妻と付き合っていたんだ、と妻に告白するのである。なんで今頃そんなことを言い出すのだろう。唐突な告白に、妻はショックを受けながらも、もうそれは忘れてしまいなさいと言う。何よりも今の自分の家庭が大切なのだ。
ところがしばらくして、彼女を殺したのも俺なんだという夫のとんでもない告白を聞いて、妻はただならぬ夫の性格を恐ろしく感じ始める。しかし、何よりも自分の家の崩壊を恐れるあまり、再び、誰も知らないのならお互いに口を閉ざしてしまいましょうよと言うのである。
夫が浮気した上にその女を殺したというのにである。すごいことになったもんだ。
男の愚かな真面目さと女の計算高い自己保身を描き出す成瀬監督のうまさだが、やりすぎでしょう。しかしこれほどはっきりした事件展開と「面白さ」は未だかってないことだ。ちょっとびっくり、ほんとに成瀬かい?つまりこの映画、成瀬は暗くてはっきりしないから嫌いという手合いには見直されるに違いない。とそんなことを考える。
小林は煮え切らないままにまた「俺は自首する」と言い出した。妻は必死に止める。すると彼は、当の被害者の夫三橋にも、彼の妻殺しを告白してしまうのだ。お前はバカか!
ところが何と三橋も、自首をせずにもう忘れろ!なんて言うのである。いったい何なんだ!寄ってたかって事件を闇に葬ろうとする意図は!と色めき立つがその答えなどなく、ただそうなったというプロットである。どうにも解せない。
あげくに小林は、自分の心の苦しさから逃れたいだけで自首を選択してしまう。滑稽にもその理由を「隠して生きるよりも白状して立派な人間となることで子供たちもいつか理解してくれる」なんて言うのだ。バカみたい。
これは喜劇かとふと思ってしまうほど間が抜けたセリフだ。いや、彼はまるで他人のことなど眼中にない男なのだ。
そして妻は(やっと)このバカな夫を殺すことを決心したのである。夫の酒の中に毒物を入れて殺した。彼のノイローゼはもう周りの知るところだったので、映画は当然のようにして自殺としてことを終わらせてしまう。そんな馬鹿な!とまたぼくは口に出さずに叫んでしまった。
初めはミステリー仕立ての展開で始まるが、犯人を明らかにしてからはサスペンスになる。しかしどの事実が本当なのかがはっきりしないような曖昧さをあえて使ったために、ミステリアスな展開がなおも続くことになる。
しかし、結局は犯人だった小林桂樹がいつも偉そうにしているのがどうにも不思議だ。妻の新珠三千代はなぜ離婚することを迫らないのかも不可解である。成瀬的に解すればやはり自己保身だけしか考えないどうしようもない男と女の腐れ縁の姿ということになるだろう。
タイトルが女を主体にしているが、これもおかしいことで妻のこういった(夫殺しの)行動は唐突でもなく予想されたことであって、「女の中の他人」が突然現れたわけじゃない。気付くのが遅いくらいだ。個人個人がまさに自分のことだけを考えて事件の始末をつけようとする展開は、ある意味でやはり成瀬の「俗物賛歌」を表しているのかもしれない。
妻が指紋をつけたままで毒を酒に混ぜるところはミステイクだろう。一発でばれてしまう。同時に彼が「自殺」した後に、彼らを付けていた草笛が小林と死んだ女の関係をちょっと警察にばらしたら、さっそく小林の指紋の付いたコップで、アパートの殺人もばれるだろう。完全犯罪とは程遠い事件だろう。成瀬にサスペンスは向かないのだ。
二人の男同士の奇妙な「友情」もなんだか非現実的でおかしいが、それをあえて描いたのかどうか、しっくりとこない。
とにかくめちゃくちゃな映画だ。面白いが成瀬ではない。

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