『血槍(ちやり)富士』 1955年東映
監督: 内田吐夢
製作: 大川博
企画: マキノ光雄 玉木潤一郎
企画協力: 伊藤大輔 小津安二郎 清水宏
原作: 井上金太郎
脚本: 三村伸太郎
脚色: 八尋不二 民門敏雄
撮影: 吉田貞次
美術: 鈴木孝俊
音楽: 小杉太一郎
権八:片岡千恵蔵―小十郎の槍持ち。主人が殺されたためその仇討をする。
小十郎:島田照夫―権八の主人。大の酒飲みで、飲むと人が変わる。
源太:加東大介―権八の仲間で小十郎の荷物持ち。
次郎:植木基晴―権八に興味を持った浮浪児。
藤三郎:月形龍之介―旅人。娘を久兵衛から返してもらうため大金を持っている。
おすみ:喜多川千鶴―旅芸人。
おさん:植木千恵―おすみの娘。
与茂作:横山運平―三十両の借金を抱えている。
おたね:田代百合子―運平の娘、借金のかたに身売りされる。
巡礼:進藤英太郎―正体は泥棒の「風の六衛門」で、背中に大きな刺青をしている。
あんま:小川虎之助
小間物屋伝次:加賀邦男―藤三郎を泥棒と疑う岡っ引。
殿様たち:渡辺篤、杉狂児―富士を眺める風流な野点を楽しみ、旅人達の足止めをくらわす。
久兵衛:吉田義夫―三十両でおたねを買う女衒。
この映画、ただものじゃない。モダンでスマートな映画だ。アングラ映画のようでもある。この年にこれほどのスカッと割り切った映画はめずらしい。古い様式のサムライ人情映画のような体裁をとってはいるが、とても皮肉たっぷりな悲喜劇である。
企画協力の三人を見ればさもありなんと思える、そうそうたるメンバーなのである。この個性の強いスタッフの集団企画がこれほどまとまった作品になること自体がすごいことだ。
この映画はリアリズムではない。はなからそういう企画で作っている。とっぱじめに殿様のようなサムライにおつきの従者が槍持ちと荷物持ちの二人だけなのだ。まるでドン・キホーテのような一向なのである。主人のサムライはさしずめキホーテ主人ということにしよう。
槍持ちの権八(片岡千恵蔵)が足を痛めて主人(島田照夫)から薬をもらう、そんな駆け引きが何ともドライな関係である。この主人はなぜか酒を断っているのだがその理由はといえば酔うと酒乱になるというのだ。本当かい?って感じだ。それで宿では酒好きの源太(加東大介)が台所で酒を飲みながらそれをばらしてしまう。が、それを陰で聞いてしまった主人は別に苦言を言うわけでもない。
三人は、この権八の槍が気に入ってついてきた浮浪児と同行することになった。そこに流しの母娘が加わってなんだかみんな和気あいあいの風。子供同士はすぐ仲良くなって遊んでいる。この子役、実は二人とも千恵蔵の子供である。
すると向こうから下にぃーとやってくるのは本物の殿様行列、たくさんの槍が高くそびえている。こちらの貧相な一行の槍の短いこととの対比で可笑しい。ところが後ろからも別の殿様一行が来て鉢合わせ。どうなることかと思えばやはり双方譲らずけんかとなり大混乱だ。しかしなぜか両方の殿様の気が合ったか、合流して野点としゃれこんだのだ。風流じゃのうと見上げた富士山が、なんと書き割りの絵である。まったくふざけているのだ。
迷惑なのはわが三人と町人たちだ。道をふさがれて通ることができぬ。と、一天かき曇り大粒の雨がどっと来た。殿たちは籠に駆け込んで一目散、騒ぎは収まったが雨で川止めとなってまた同じ宿に同じ一行が投宿する。この中にはめくらの按摩とか行商人とか得体のしれない輩がいてどうもそれぞれに一物ありそうだ。
そんな折、のっけから三十両の泥棒騒ぎがあって、その金らしきものを持っている男を小僧が見つけたという。この三十両がキーワードで、投宿の中には銀山で稼いだ三十両を持った男がいるし、三十両の金がなくて娘を売りに来た老人がいる。この娘を助けようとしたキホーテ主人が槍をこっそりと売りに出かけたが偽物と突っ返された。
そんな折に宿ではかの行商人を見た小僧が、犯人だ!と言ったものだから大騒ぎになっていた。泥棒は巡礼姿の進藤英太郎だった。がドスを抜いて大暴れしているところに、槍の先がぬっと出てあえなくお縄となる。その槍はといえば売れずに持ち帰った槍を狭い戸口からただ突き出しただけのこと。
大手柄というわけで役所の表彰となったが、キホーテ主人は、なんだい部下の手柄が主人の手柄となる理不尽に腹を立て、あげくに見返りはありがたいお言葉だけ?と娘の身売りを助けられなかった腹いせについに酒を飲む羽目となった。さあ、このキホーテ主人、酒が入るとどうなるか。あとはとんでもない展開になっていくのである。
大きな造り酒屋のような店で飲んでいるとどやどやと入ってきた侍が娘を虐めている。一言たしなめると侍が荷物持ちと一緒に酒を飲んで侍のメンツをつぶしたなどと言いがかりをつけたあげく刀を抜いた。キホーテ主人は酒が入っているから怖いものなしでついに切り合いになっちまった。で、何とキホーテ主人と荷物持ちが切られて死んでしまうのだ。そこに駆け付けた槍持ち権八、我流の槍さばきでこれも意外なことに気迫だけでサムライ三人を突き殺してしまう。
後の裁きの場で、侍が槍持ちに返り討ちにあったとはさすがに言えず訴えは退けられる。翌朝、二人の骨を白箱に入れ首に下げて権八は皆に別れを告げて去っていく。この姿、どうもそぐわないがどこかで見たような風景だ。そう引揚者や戦地の復員兵がこうして死んだ仲間の骨を持っていた。それを揶揄しているのかどうか。とにかく無駄に等しい争いのために死んだという意味では、この映画もあの戦争も同じなのだった。満州からの引揚者内田吐夢ならではの諧謔である。
とにかく面白い。洒落が粋である。
と、最後はかの『雄呂血』(1925年二川文太郎監督)をほうふつとさせる活劇で〆るのだ。

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