『嵐』 1956年東宝
監督:稲垣浩
脚色:菊島隆三
原作:島崎藤村
製作:稲垣浩
撮影:飯村正
音楽:深井史郎
笠智衆:水沢信次 山本廉:水沢太郎 大塚国夫:水沢次郎 久保明:水沢三郎 雪村いづみ:水沢末子 田中絹代:お徳 加東大介:誠心堂主人石井 清水元:桜館主人北川 中北千枝子:女中お咲 江川宇礼雄:八代教授
父親一人で4人の子供を育て上げた、そういう男の日常を淡々と描くが、その説得力が映画を品のいい上質なものにしている。
インテリの男が妻を失くして小さい子供を4人も引き取って暮らせば、どうなるか、ほぼ見当がつく。そういう予想にたがわぬ展開で苦労もし楽しみもありという生活をただ描くのだが、これを観た誰であっても、なんだかとても身につまされてしまうような、そんな描き方なのだ。こういう表現はある意味で、ドラマチックに描くことよりも難しい。妙に感情移入させようとすると映画の品が落ちてしまうからだ。
僕の観た中では、小津安二郎の『一人息子』に次いで二度目の笠智衆の主役ものである。戦争の影をちらりと見せた『一人息子』同様に、これも母親のない父と息子たちの物語である。いわばこの二つの映画は対になるものだ。
笠の見事な演技力におどろく。「嵐」というのは子供を4人かかえて家で辞典制作にあたるのはまるで嵐の中にいるようなものという喩え。したがって、嵐の去ったあとの寂しさもこの映画の主題である。
フランス語学者水沢(笠智衆)は懇意の出版社の石井(加東大介)からフランス語辞典の執筆を頼まれる。彼はライフワークとしてどうかと言ってくれるのだが、水沢はぼくのライフワークは子供ですよなどという。
彼は全くその通りの男で、妻が残した4人の子供をいかに育てるかということに挑戦する気概である。しかしそうは思うようにならず苦労の連続、しかも仕事中に何かと子供が問題を起こすことにも気が気でない思いをする。とにかく優しい父なのだった。
はじめは親せきに預けてあった長男と次男を引き取り二人のケンカとおねしょの世話にせわしない日々。そのうちに次の娘も引き取るが始めはいじめられて泣いてばかり。田舎にあずけていた三男はなかなか馴染まず、まるで壊れ物を扱うようにしてしまう。
教師をやめて辞典にかかりきりになって嵐のような7年が過ぎた。子供たちも大きくなり青年に育った。成ればなったで今度は画家を目指す二男三男がいがみ合う、社会主義の本を手に入れて警察に呼び出される。と今度は、娘が初潮を迎えてオロオロするありさまである。またも嵐の真っただ中の生活だ。
田舎にひきとって立派に暮らしている長男のところにふと行きたくなり訪ねてみると、まるで大人になった息子を見て驚くのだった。画業で対立している次男がここに世話になって絵に打ち込んだらどうかと、頼み込んで引っ越しをしようという時に、今度は三男がフランスに行きたいと言いだすのだった。
ふと我が身を振り返ると、残る末の娘もそのうちに嫁に行くのだなあと深く孤独を感じるのである。長年家の手伝いをしてきたばあや(田中絹代)はその孤独感に同情してつい目がしらが熱くなるのだった。
二回の窓際に座って二人の老人は、さあこれからまだやることがたくさんあるといって空にかかった虹をながめるのだ。
『三丁目の夕日』などに目を奪われる前に、本物のノスタルジーを味わってほしい。

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