『歌女おぼえ書』 1941年松竹
監督:清水宏
脚本:長瀬喜伴、八木沢武孝
撮影:猪飼助太郎
音楽:伊藤宣二
考証:岩田専太郎
水谷八重子(お歌/歌女) 藤野秀夫(茶問屋「ヤマヘイ」の大旦那) 上原謙(長男・平松庄太郎) 朝霧鏡子(妹縫子) 津田晴彦(弟次郎) 河村黎吉(梶川) 春日英子(綾子) 富本民平(旅役者紋緑) 仲英之助(同鐘之助) 水原弘志(同鯉十郎) 飯田蝶子(宿のお内儀) 三好栄子(おたね)
清水としてはいつも以上に丹念に人物シーンを長まわしで撮っているように見えた。それで水谷八重子の芝居で培ったどこか悠長な芝居っ気がこれでかえって自然に映るということになる。つまりはこういう女としてこの映画を作ったというべきだろう。要するにこの映画は水谷八重子の特徴を生かした映画なのだ。
一方の上原謙はほとんど画面から消えているのだから。これも、そういう映画として清水は作ったというべきなのである。
とにかくもこの映画は秀逸であり感動的だ。画面の静けさに似合わず展開の意外性があって面白い。これを好まない人もいるが、常套ではなくよろしい。
最後はハッピーエンドなのだが、それは必ずしもお歌の希望するところでないというところも、何かほろ苦いところを残したわけだ。珍しい映画と思う。
えんえんと森を下ってきて、ある宿に泊まった4人の旅役者。女(お歌)はどこかどこか投げやりでなるようになるといった風で、3人の男は女をどこかにでも売ってしまおうかという空気だ。
二階の客が芸者はまだかとうるさく言うので、それならと嫌がるお歌を踊らせて客に見せる。そのあとでお歌は仲間の男にだまされたと言っていざこざになるのだが、客の茶問屋の主人が、それならいっそ内に来て踊りでも教えてまた後のことを考えたらどうかと誘われる。お歌はどうされるのかという疑いを持ちながらもダンナの家に入った。
しかし周りにいらぬ評判が立ち彼女は居づらくなっていくのだった。家の中でも邪険にされいじめられるのである。
そんな折に突然茶問屋のダンナが死んでしまうのだ。急遽息子の庄太郎(上原謙)が呼び寄せられて帰ってくるが、店の借財の始末で苦しむことになる。しかしお歌が二人の姉弟は私が預かるからと庄太郎を東京の大学に帰すのだった。庄太郎は考えた末に「女房になら子供を預けられる」と言うのだ。粋なプロポーズである。
庄太郎が留守の間は意地悪な縁者の梶川との軋轢の中で、お歌はだんだんしっかり者の女になっていくのだ。
その元は彼女の子供からの信頼によることが大きい。ここでも清水は子供の力をうまく映画の中で使っているのだ。お歌は子供たちの力によってこの危機を乗り越えようとしているのだった。
ある日アメリカのトーマス商会からの大量の注文が来る。条件は「ヒラマツ」の商標での取引である。さあ、のれんを下ろした問屋のところに注文が来て、いったい彼女はどうするのだろうか。ここが見どころである。ここでお歌は一人奮闘、すでに取引の決まっているほかの問屋に頼み込んで、店の商標で茶を譲り受けることはできないだろうかと、大きな賭けにでるのだ。この一連の場面はスリリングだ。
彼女の真摯な立ち居振る舞いにさすがの問屋のダンナ連も次第に軟化してくるのだった。そしてついにこの商談が成立してしまうのだ。
あとは卒業して帰ってくる庄太郎を待つばかり。
とその時、かつての芝居仲間の一人が訪ねてきた。彼はカネの算段できたのだが、お歌にはまた違う思惑があった。ここまで一人で店の立て直してきた気疲れが来たのだ。お歌は今じゃいっぱしの茶問屋の奥様なのだが、ここでお歌はこの芸人仲間とともにすべてを捨てて行ってしまうのだ!あたしゃやっぱり芸人暮らしが性にあってるわ、と。
庄太郎はお歌を探して旅芝居ののれんを見つけて訪ねていくがお歌は陰で見るばかりだ。しかし、それでも庄太郎はまた芝居小屋に現れた。今度は楽屋裏に入り込んで言う、おまえのしたことは堅気の人間になれることの証なのだと。
お歌は考えてしまう、本当に自分は堅気になれるのだろうかと。出番の声で鏡の前に座りそっと涙をふくお歌。
最後は、後日お歌は家のものに迎えられて庄太郎の妻になった、と字幕で語られる。
揺れ動く旅の女の心。決めの細かい脚本。無駄な画面の一切ない映像。水谷八重子の芝居がかったセリフ回しがこの映画の質を格段に高めている、特異な名作である。

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