『セントラルステーション』1999年ブラジル
監督: ヴァルテル・サレス
脚本: ホアオ・エマヌエル・カルネイロ マルコス・ベルンステイン
撮影: ヴァルテル・カルヴァーリョ
音楽: アントニオ・ピント ジャック・モレレンバウム
Dora フェルナンダ・モンテネグロ
Irene マリリア・ペラ
Josue ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ
Ana ソイア・リラ
Cesar オトン・バストス
Pedrao オターヴィオ・アウフスト
Yolanda ステラ・フレイタス
Isaias マテウス・ナシュテルゲーレ
Moises カイオ・ジュンケラ
セントラル駅構内で代書屋をしている中年女性ドーラは、決して親切ではなく金にはうるさい。そこに生活に疲れたような母子が、父親に手紙を書いてほしいと来るが、帰り際にその母親がバスにはねられて死んでしまう。
その日から少年は駅の構内に寝泊まりする身になった。その少年がまた来て父親に手紙を出したいと言う。ドーラは金がなければ書けないと突っぱねてしまう。ちょっと意外な出だしである。
この女、実は客に代書代と郵便費をもらっているが手紙を捨ててしまい郵便代を踏み倒しているのである。寄る辺ない人たちのせめてもの思いのこもった手紙を捨ててしまうのだ。とんでもないワルである。
そんなドーラがまたしても企んだのが里子のあっせんである。ちょうどいつも駅にいる少年を知っているのでその斡旋屋に少年を売ってしまったのだ。
その金でテレビを買って帰ると、同居の中年女性がその金はどうして稼いだの?と聞く。ドーラがついに嘘をつき通せずに少年を里子に紹介した金だというと、その女性がそれは子供の身体から臓器を抜き取っている人たちだよ、という。それからはドーラは眠れなくなった。自分のしたことが恐ろしいことだと初めて知ったのだ。
そして彼女は少年のいる彼らの部屋に忍び込んで少年を奪い取って逃げるのだった。しかし男は彼女の家まで追ってくる。ついにドーラは少年ジョシィを連れて長距離バスに飛び乗ったのだった。
おいおいこれは『グロリア』かよ、とぼくは思った。少年と中年女性の逃避行、このシチュエイションはもう手垢にまみれているからなぁ、あの作品を超えるはずはないと先を危ぶんでしまった。
しかしどうもこの女性ドーラの顔が気になるのだ。憎むべき人間にあらざる、ある情を備えた顔なのである。それで一応見ておくかと映画の先を見た。
結果から言ってしまうと面白かったし、見ごたえもあった。ブラジルらしい恐ろしい光景もあり、少年の機転で救われたり、親切なトラックの運転手に岡惚れしてしまうドーラの悲しさの描かれている。つまりは有り体のドラマだったのである。それにもかかわらず面白かったのだ。
それはミステリーの要素が隠されているからだ。
この二人は、妻子を捨てて遠くに行ってしまった飲んだくれの父、を探す旅に出るのである。少年はまだ見ぬお父さんが立派な大工だと信じているがどう考えてもダメおやじだし、探し当てても待っているのは落胆だけだいうことが、それとなく示される。
にもかかわらず少年の熱気に押されてドーラは少年と運命を共にするのだ。そして探し当てるたびに彼のオヤジは飲んだくれてどっかに行ってしまたという事態に遭遇する。
そしてある村の小屋のような家に行くと二人の少年がいる。どうやら彼らは出ていった父親の息子らしい。一人は父を嫌い一人は尊敬している。父親像が二つに分かれることで、このドラマはにわかにミステリーになるのだ。
やっとぼくらも少年のようにその父親に会いたくなってくるのである。いったいどちらが本当だろうか。そして本当にこの兄弟の親は少年の実の父なのだろうか。
大工見習の兄がちょっと見せてやると言って、少年を木挽きの機械に立たせて一本の木を回転させ丸いものを作り出した。その出来上がってコトンと落ちたそのものは、かつて少年がいつも持ち歩いていたコマと同じ形だったのだ。
ここでぼくらはいままで少年につきまとっていた風景ががらりと変わる一瞬を経験するのだ。映画の醍醐味である。
そしてドーラはいったいこれからどうするのだろうか?
始めから言葉の中だけで出てくる父親が、まったく姿を見せずだんだんとその存在を大きくしていって、そのたびに父親像がくるくると変わるという「見えない主人公」を使ったミステリーなのだった。

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