『バベットの晩餐会』 1987年デンマーク
監督 ガブリエル・アクセル
脚本 ガブリエル・アクセル
原作 イサク・ディネーセン(実はカレン・ブリクセン)
製作 ボー・クリステンセン
音楽 ペア・ノアゴー
撮影 ヘニング・クリスチャンセン
ナレーター:ギタ・ナービュ
バベット:ステファーヌ・オードラン(フランスから亡命して来た女性)
マーチーネ:ビルギッテ・フェダースピール(牧師の娘)
若いころのマーチーネ:ヴィーベケ・ハストルプ(ローレンスに求愛される)
フィリパ:ボディル・キュア(牧師の娘)
若いころのフィリパ:ハンネ・ステンスゴー(パパンに求愛される)
牧師:ポウエル・ケアン(マーチーネとフィリパの父親)
ローレンス:ヤール・キューレ(スウェーデンの将軍)
若いころのローレンス:グドマール・ヴィーヴェソン(スウェーデンの若い士官)
アシール・パパン:ジャン=フィリップ・ラフォン(著名なフランス人バリトン歌手。
参ったなあ、というのが初感だ。その意味にはたくさんの事柄がかかわっている。参ったなあ面白かった。参ったなあ解からない。参ったなあこう来たか。参ったなあそれだけかよ。参ったなあ腹いっぱいだ。参ったなあ遠巻きの宗教批判じゃないか。参ったなあ旧約聖書かよ。参ったなあ美味いもの賛歌かい。参ったなあけっきょくフランス料理なの。参ったなあ貧しい食事で心が固くなるってこと?。参ったなあつまり飲んで食えば心がおおらかになる俗説?といろいろだが、つまりはよくできている作品だ。
しかし貧しさを旨とする小さな宗教の集まりに亀裂が生じて、その絆が壊れようとしていた時に現れた一人の女料理人、彼女が一流レストランの料理をふるまったということで分解しようとした集団が一つにまとまったというのが表向きの骨子なのだ。
うまいものを食ったら心のわだかまりが解けた。これってあまりにも俗っぽ過ぎやしませんか。こういうことは誰でも経験していることだし、議論は食事しながら、というのが議論をまとめる一つのカギだということなど目新しいことではないのだ。
つまり、この映画はそんなことを言っているんじゃない。それは表向きの顔だ。
それよりも寒村で宗教に励む一団のありようを緻密に描くことに主眼を置いているのだ。その風景も人の在り方も確かに「美しい」のである。そしてパリコミューンという革命の混乱期におけるいっぷくの良い話ということでもある。それを丁寧に描くことが目的なのじゃないだろうか。
それだけで十分に見るに値する映画は作れるのだ。その材はだからあまりドラマチックでない方が勿論よかったのだ。まるで小津作品のようにである。
だがそれじゃあまりにも味気ない解釈である。この作品はあえて落しを言わずに連想させることで意味深い抒情詩を作っているのだ。若く美しかった姉妹が信者を集める大きな力だった。そのうえに説教者としての優れた牧師がいたことで命脈を保ってきた宗教団体が、その頭目を失って寂れていく悲しさを、美しかった姉妹がすでに老女となっている画面で見せるのも残酷な仕業である。
と、そこに見知らぬ女がやってきてまかないをすることでだんだん信者たちが生き生きとしていく。
しかしパリから来たという彼女が、幸運にも金券を当てたことで再びパリに戻らなければならないことになりそうで、老姉妹はまた心寂しくなっていた。
そして彼女は晩餐会を自分の手でやりたいと言う。姉妹はこれが最後の晩餐だと思う。もう彼女は行ってしまうのだ。そして集まったのが12人だ。まるでパロディである。
しかし結末で大逆転。彼女は帰る金もないという。え?だって金券の1万ルーブルは?と問う姉妹。だって今の晩餐ですべて使い果たしてしまったの。パリのレストランでは12人分の料理がちょうど1万ルーブルなのよ、と。
彼女はよみがえったキリストのようである。これからも村に残り貧しい食事をまかなって生きることを決意した瞬間だ。
このような様々な行きがかりを、姉妹の無表情な表現でち密に演じ分けるうまさが素晴らしい。いったい嬉しいのか哀しいのか微妙な差異を表現するのである。これもまさに能の表現のごとく微々とした感覚の差なのだ。
彼女の作る恐ろしげな料理を、黙って食べなさい、決しておいしいとは言ってはいけませんよ、という規律のもとに食べ始めるところが傑作だ。作法を知らない信者たちは、横目で将軍の食べ方を真似ているうちに、突然将軍がその美味さに作法を忘れてスープ皿を持ち上げてすすってしまうのだが、それを見た信者たちが一斉にすすり始めるおかしさ。など見るべきところは多い。
こういう作品は何回も見る価値がある。

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