黒沢映画のすべて、30本をスカパーの映画専門チャンネルでやっているので見ている。これはすごい企画だ。今まであまり目にする機会のなかった作品も見れる、というのでウハウハである。
『醜聞−スキャンダル』 1950年東宝
監督: 黒澤明
製作: 小出孝
企画: 本木荘二郎
脚本: 黒澤明 菊島隆三
撮影: 生方敏夫
音楽: 早坂文雄
出演: 三船敏郎:青江一郎 山口淑子:西条美也子 志村喬:弁護士蛭田乙吉 桂木洋子:蛭田正子 北林谷栄 蛭田やす 千石規子:すみえ 小沢栄太郎:編集長堀 日守新一:編集員朝井 三井弘次:カメラマンA 大杉陽一:カメラマンB
この年に『羅生門』ができているのでどうしても比べてしまうが、三船敏郎が役にはまらないと、とんでもなくしゃっちょこばった演技になってしまう例である。三船も山口淑子(李香蘭)も何と演技が下手なんだろう。でも下手でもいいのである。それが映画のリアリティになっていればいいのである。
そういう例が『羅生門』の三船なのだ。これはいい。つたない演技がこの映画の百姓サムライの存在感を増しているからだ。こういう役はかえって演技が走ってしまうとだめなものだ。
さて、この映画の三船は何の苦労も知らない青年画家でいやに明朗な男である。そこからくる正義感を疑いもなく発揮する。
雲取山の見える山にオートバイを走らせて一人の青年が上っていく。彼が画架を立てていると村の老人たちがその絵を茶化しにくるが、そこに歩いて山を越えようという女性(山口淑子)が歌を歌いながら荷物を抱えて登ってくる。
そして、バスがないので歩いて町まで行くという。そしてお決まりのようにオートバイにその女性を乗せて山を下ることになる。なんだか二人はホンワカ。もう先は読めたようなものだ。これではまるで裕次郎の軽薄青春ものだ。
それで彼女と同じ旅館に泊まることになり、女の部屋を訪ねたところを雑誌のカメラマンに撮られてしまう。これがスキャンダルになるのは彼女が有名なシンガーだったからである。ああそうかいそうかいってなもんだ。取って付けたようにカメラマンがいたわけだ。その結果、雑誌で大々的に報じられてしまう。
ところがなぜか、彼女ではなくその画家が裁判に訴えるのだ。記事が事実無根だという彼の世間知らずの正義感なのだ。
が、そこに売れない弁護士蛭田(志村喬)がこれも突然やってきて俺に任せろという。威勢が良いばかりでいい加減な男だ。三船がその蛭田の家に行ってみると肺病の少女(桂木洋子)が床に伏せっている。ニコリと笑顔でお父さんはああいう人なの、と。
父と娘の貧乏所帯だったのだ。おいおい、単に思いついたからにしてもまるで必然性のない出会いばかりだ。
これでいい映画ができるわけがない。黒沢とは思えぬ、信じられないような出来というもの。ちなみに山口淑子はといえば何も演技らしいことはせず、ただ歌っているだけだ。
この自堕落な弁護士は競馬に入れ込んで金を使い果たし雑誌社に金を借りてしまう。弁護どころか相手の手の内に落ちてしまうのだ。結局法廷でどちらの弁護をすべきか迷うありさまで、ただしどろもどろになって下を向くばかり。
しかし娘はついに死んでしまい、はっと我に返ったようにして法廷でのどんでん返しの発言をして、雑誌社のぐうの音を止めて弁護を全うする。なんだかどこかで見たような展開で終わるのだ。
そうこれが二年後の『生きる』のたたき台として生きたのだった。
そういう意味では無駄ではなかったというほどの映画だ。愚直なまでの生真面目さが、そのままで画面になっている。
思うにこれが、たとえば裕次郎みたいなあっけらかんとした明朗青年映画であれば、喜劇としてもっと明るく撮っていれば、大いに受けただろうことは確実と思う。品は下がるが、俗に受ける材は十分に入っているのだから。
でも黒沢はもちろんそうできても、そうはしないことも確実だ。

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