『吾輩は猫である』 1936年PCL東宝
監督:山本嘉次郎
脚本:小林勝
原作:夏目漱石
撮影:唐沢弘光
音楽:紙恭輔
珍野苦沙弥:丸山定夫 迷亭:徳川夢声 水島寒月:北沢彪 細君:英百合子 雪江:千葉早智子 鼻子:清川玉枝 東風:藤原釜足 三平:宇留木浩 車夫の女房:清川虹子
軽妙なタッチの喜劇であり原作の気分をそのまま映画にしたようなもの。いわば元本の面白い程に面白い映画だ。現在のように人に気遣うことのない、冗談を言い合い、きつい言辞を吐くことのできる時代の産物だ。
思えば堅苦しい時代になったもの。いやこの映画のできた時代が堅苦しくなかったとはいえまい、なんせ戦争中だ。しかしその戦争は勝った勝ったのまだ勢いのついていたころの戦時中なのだ。もうすぐそこに戦局の悪化に伴った何も言えない時代が来るとはわれわれ国民は思いもしなかった時だ。
この映画はもちろん猫が主役ではない。猫が語った「先生」宅にまつわる滑稽話である。それは原作どおりである。些細なことを大げさに騒ぐ人間という代物、という映画である。辛辣冷静にその情景を眺めていた「吾輩」も、ついに酒をなめたことで不覚をとって井戸に落ちて頓死してしまう。
それにしても山本嘉次郎という人は器用な人だ。まったく違う傾向の映画をそれなりの質の高さで作ってしまうのだから大したものなのだ。
しかも彼のもとで以後名監督になる人間がたくさん生まれているのだ。映画だけではなく質の高い人も作ったということなのだ。
『馬』という、これも映画のみならず歌や物語の動物ものの一つの典型を作ったとおぼしき作品が彼にはある。この映画も迫力が並大抵ではない。
『馬』 1941年東宝
監督:山本嘉次郎
脚本:山本嘉次郎
チーフ助監督:黒澤明
音楽:北村滋章
高峰秀子:長女・いね 藤原鶏太:父・甚次郎 竹久千恵子:母・さく 平田武:長男・豊一 細井俊夫:次男・金次郎 市川せつ子:次女・つる 丸山定夫:山下先生 沢村貞:奥さん・きく子 小杉義男:佐久間善蔵 清川荘司:鑑定人・坂本さん
気丈で純粋な長女いね(高峰秀子)は馬が好きで、ある日妊娠馬を預かってしまう。家族が反対しているにもかかわらず強引に馬を家屋の土間の中に飼ってしまうのだ。それはただ馬が好きだというだけなのだ。
当然母は困ってその馬を邪険にするがそのたびにいねは「おかァは情のない人だ」なんて言うのである。
母(竹久千恵子)はぷりぷりといつも怒って彼女を厳しく扱っているのだが、その実どこか優しいのである。父はそんな彼女らを見ても何も言わずに黙々と生きている。
大人は馬が家計を圧迫するのでやっかいものとしか見ていないが、子供にとって動物は掛け値なしに可愛いのである。
つまりこれは動物と子供たちの麗しい話の原点だ。しかしそれをファンタジーではなく実の生活の中で発見する愛情物語なのである。ただ優しいだけの美しい動物モノではないが、今では当たり前の動物モノ映画の端緒になる作品かもしれない。
そしてこの馬の出産場面の緊張感がただ事ではないのだ。
山本嘉次郎はこの家族のドラマの中に突如としてドキュメンタリーを入れ込んだのだ。それが馬の出産場面だ。暗い馬屋のわらの中で次第に高まる出産の緊張感。それをただじっと見つめる出演者たち。特に子供たちはもう演技ではなくマジにその光景に目が釘付けになっている。
カメラはこういった息を殺して馬屋に見入る人々を暗闇の中にとらえるのだ。
真柏の画面である。事実が呼び起こす感動である。実際の出産場面に俳優を立ち会わせたまさにノンフィクションでありドキュメントなのである。
家計がひっ迫して父はついに仔馬を売ることにした。いねは女工になり働いてこの馬を取り返す決心をする。思ったことは何でもやる子供なのだった。始めに馬を買うことになったのも、その馬の病気を治すために雪の中を遠いところまで歩いて新鮮な野草をとりに行ったことも、すべて彼女の思いの強さが為した行動だった。
そして一年、牧場に仔馬を探して馬の群れの中を歩いたが仔馬はいなかった。落胆して帰ろうとするいねの後をついてくる馬があった。いねはもうお帰りと言って、その馬をよくよく見ると、それは立派に成長した彼女の仔馬のたくましい姿だったのである。
いねはその馬を育て切って、ついに馬のセリに出すことになった。馬の鑑定はすこぶる良く、軍馬として高値で売れた。家族一同大喜びに沸いたが、彼女にとってはこれが馬との別れの瞬間だったのである。
動物と子供の別れの物語だ。しかもこの馬が戦地でたぶん死の運命にあうだろうことを思うと一層悲しい思いがする。

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