『婦系図』 1934年松竹蒲田
監督 野村芳亭
脚色 陶山密
原作 泉鏡花
撮影 水谷至宏
作曲 高階哲夫
録音. 土橋晴夫 橋本要
お蔦:田中絹代 早瀬主税:岡譲二 酒井俊蔵:志賀靖郎 娘妙子:大塚君代 女中お源:飯田蝶子 芸者小芳:吉川満子 高野英吉:日守新一 めの惣:河村黎吉
なんとも冗長な映画だ。長すぎる。ワンカットの長さが尋常でないのだ。これはこれで意味のあることかもしれないがである。
原作を知らなければ、いったい何で主税がこれほどまでに「先生」に恩義を感じているのかがわからないだろう。やはり彼の書生時代のいきさつを撮らなければいけない。元ヤクザ者だったころの恩義である。
それをかなり押し迫ったところで「俺は過去にヤクザ者だったのだが先生に救われたのだ」などと主税の口から言うだけではだめだ。
プロットをないがしろにしてやけに説教節が随所に出てくるのもいただけない。これでもかと泣かせるには力不足だ。
面白いことにけっこう喜劇調のやり取りがあることで、これは良いのだが、それといやに深刻ぶったシーンとがかみ合っていないのである。
田中絹代の初々しさはこの映画でも健在で、まったく可愛らしい芸者蔦吉を演じきっている。それに比べて岡譲二の主税はややひねているきらいがある。オヤジみたいな説教をぶつところもよろしくない。
映画としてはこのほかに、マキノ正雄監督モノと、三隅研児監督モノと三作見たが、やはり山田五十鈴と長谷川一夫の主演の作(マキノ正博監督)が突出して良い出来である。
『婦系図』 1942年東宝東京
製作 伊藤基彦 氷室徹平
演出 マキノ正博
脚色 小国英雄
原作. 泉鏡花
撮影 三浦光雄
音楽 鈴木静一
録音 安恵重遠
(早瀬主税)長谷川一夫 (お蔦)山田五十鈴 (酒井俊蔵)古川緑波 (妙子)高峰秀子 (芸者小芳)三益愛子 (めの惣)山本礼三郎 (河野)菅井一郎
プロローグ。芸者が通う髪結い場のシーンのあと、祭りの夜、巾着切りのおさなともだちに若芸者のお蔦が、スリなんていけないわ、お金がなければこれあげるといってキンゾウに金を渡す。キンゾウとはのちの早瀬主税のことで、このヤクザにもなりきれない小僧を長谷川一夫がやっている。彼はその金を投げつけて去っていく。まだ若い時のこのシーンが主税とお蔦の親密な愛情のこもった関係をよく表している。
この後にあの祭りの晩、スリそこなって真砂の先生につかまってしまうシーンがくるのだ。ここで初めて先生が彼の資質を見定めて書生にするのである。ヤクザから一転、学問の徒となるのだ。
そして5年がたち、主税は立派に学問で独り立ちしようとしていた。彼は先生に内緒でお蔦と同居するが、来客があるたびに台所に隠れるお蔦の素振りが見る者の心を打つのである。にもかかわらずその噂は先生の耳に入ってしまう。先生は芸者と夫婦になることを許さない。そこであの有名な湯島聖堂での別れのセリフが出るのだ。
恩人である先生の言いつけで主税と別れる羽目になったお蔦の悲壮的なドラマをこれでもかこれでもかと見せつけるのだが、これがまったく押しつけがましくないのが不思議だ。それはマキノ正雄がいっときもリアリズムを外さずに畳みかけるからである。いったいこの正鵠なリアリズムは何なのだろうか。マキノの手腕が素晴らしい。わかっていても引きずり込まれてしまうのだ。画面の緊張感に並々ならぬものがあるのである。
どこまでも悲恋なのだが、なぜか山田五十鈴は暗く演じても陽である。いったいなぜなんだろうか。この人の人格からにじみ出る色なのだ。そっけなく聞こえる言葉の端はしに情がにじんでくるのである。稀有な役者である。
凄いのは、彼女が死ぬ寸前に真砂の先生の手を握って主税の名を呼ぶ、そのときに、帰りたいが帰れない外国にいる主税の書斎に、生霊となって現れる場面である。
ふと源氏物語において、光源氏と夕顔の逢引きしているところに生霊となった六条の局が現れる場面を思い出してしまった。六条は嫉妬心のなせる業だが、こちらはもちろんその愛情の深さゆえに現れるのだ。
部屋の暗闇にその声が聞こえて主税ははっとして、そしてお蔦の死を知るのだった。
長谷川一夫と山田五十鈴、お互いに千両役者であるゆえに説得力のあるシーンになっている。先生役の古河緑波の好演も見のがせない。

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