『大菩薩峠』シリーズ三作 1960年〜1961年大映京都
監督:三隅研次(三作目は森一生)
製作:永田雅一
原作:中里介山
脚色:衣笠貞之助
机竜之助:市川雷蔵
宇津木兵馬:本郷功次郎
お豊/お浜/お銀:中村玉緒
お松:山本富士子
裏宿の七兵衛:見明凡太朗
近藤勇:菅原謙二
芹沢鴨:根上淳
土方歳三:千葉敏郎
中村玉緒が3役で出演し、最初に殺された妻お浜と、のちに出てくる瓜二つの女性として三役を演じている。このあたりは机竜之介の思い込みとしてのお浜像が、めぐり合う女をすべてお浜に似ている女と見させたとみるしかないだろう。つまり次々にお浜に瓜二つの女が出てくるのは竜之介の妄想の産物なのだ。
竜之介という人物は自分勝手で病的に思い込みの強い男として存在している。しかしそれは俗にいう自己中心的というよりも、どこか捉えどころのないものに取りつかれているような、陰にこもった不思議な男として存在しているのだ。
彼は次々と人を殺していくが、理由はただ「殺したいから」というに過ぎない。これはある種の病態を示しているし、また哲学的に見た人間の闇の姿を現してもいる。それにしてもいきなり旅の老人を背後から切り殺したり、剣の試合で相手を殺した上にその妻を手籠めにし、挙句にその女も殺してしまうなどどう見ても異常な殺人鬼ではある。
しかし、この、人に内在する徹底した攻撃性を描くことによって、この作品は歴史に残ることになった。
しかしその哲学的な思想を描くには、この映画はまだ至っていない。ただ不思議と人に好かれる(信頼される)美形の男ということが、彼を深遠な人物と見せているに過ぎない。その深遠さをはぎ取ってしまえば、机竜之介はただの通り魔か頭のおかしな殺人鬼なのである。
荒唐無稽な話だが、これほどの長編になればいかに無謀なれども人は何かその殺人鬼にもどれほどかの意味を見いださずにはおれないだろう。これが、たった一篇の小説ならばこれほどまでに机竜之介に思いを巡らすことはないと思う。物語とはつくづく長さなのだなと思うわけである。
それにしても雷蔵の、どことなく何かをたたえた凄味のある男の姿を演じることのできる技量がこの映画を支えていることは確かなのである。
『濡れ髪剣法』 1958年大映京都
監督: 加戸敏
脚本: 松村正温
撮影: 武田千吉郎
市川雷蔵 八千草薫 中村玉緒 大和七海路 阿井美千子
濡れ髪シリーズの第一作。打って変わって、雷蔵のひょうきんな面を見せる映画の一つで、とぼけた味のある若殿役と町人役を見事に演じれるのは彼の芸域の広さだろう。そして、ひとたび決戦となれば威厳のあるセリフ回しができるのがこの人の強みである。
先日見た机竜之介のような冷徹な剣士を見たあとだけに、このちょっとおどけ顔の若殿役の雷蔵が魅力的に見える。本当はこういう喜劇において彼の良さが出るのではないかとも感じた。
陰湿な役も明朗だけの役もこなせる良い役者だった。37歳、早逝が惜しまれる。
若い八千草薫が許嫁の姫を演じて、若殿の尻を叩くさまが何とも可愛らしい。中村玉緒のおきゃんな娘ぶりも可愛い。今ではこの二人の若いころの映像を見れるだけで十分見るに値する。
二人ともいまだ健在である。
『浮かれ三度笠』 1959年大映
監督 田中徳三
脚本 松村正温
撮影 武田千吉郎
市川雷蔵 本郷功次郎 中村玉緒 左幸子 宇治みさ子 美川純子 島田竜三
これもテンポのいい時代劇喜劇で、時代劇の俳優がやっているだけに安心して見れる。雷蔵はこういう喜劇の方が力が抜けていて面白い。彼は好色ものをやらせると一段と歯切れのいい華のある男に変身する。
『好色一代男』(増村保造監督)などは見ものである。芸域が広いというのはこういうことだ。まるで松竹新喜劇を見ているようである。
コミカルなタイトルバックもいい。セリフが今様にしてあって、時おり当世風ギャグを飛ばすのだが、このキャストにしては思いがけないので面白い。「バックシャン」などという言葉が懐かしくも出てくるが、すでに死語である。
これは姫(玉緒)が城を遁走してしまい、それを探しに出た家臣(本郷)がからきし女に弱くて、それを助けるやくざ者が雷蔵である。手を変え品を変えのシリーズものだが、ありがちな説教じみたことや正義感ぶったところがない。それがいい。
『濡れ髪三度笠』 1959年大映京都
監督:田中徳三
脚本:八尋不二
撮影:武田千吉郎
市川雷蔵 本郷功次郎 淡路恵子 中村玉緒 楠トシエ
お忍びで野郎姿になる若殿様もので、『濡れ髪剣法』の若殿を今度は本郷功次郎が演じて、股旅者を雷蔵がやっている。
バカ殿を演じても雷蔵はさまになるが、本郷では本当のバカ殿になってしまうところが悲しい。芸域の深さの違いである。まっこと雷蔵がどんだけ凄い役者かということだ。
これはあまり面白くなかった。
『雷蔵、雷蔵を語る』(朝日文庫)
という本があり、高尾の古書店で見つけたのだが、雷蔵という人は正直でまっとうで律義で勉強熱心な男なのであった。
当世、美空ひばりを揶揄するなんて誰もできなかった芸能界において、彼はひばりをお嬢などと呼ぶことはしなかったと書いている。それでひばりとの共演作には一回しかお呼びがかからなかった、などときつい冗談を飛ばしている。
また嵯峨美智子についても、親(山田五十鈴)の血を引いているが、彼女は男遊びが芸の肥しになっていないと苦言を言っている。等々まったく正直者である。
また『眠狂四郎』第一作は失敗だった。なぜなら暗い男の表情が出ていなかったのだという。それは結婚直後で幸せな顔になってしまったためであろう、などと本気とも冗談ともつかないことを言っている。ぼくはその映画を見たときは気付かなかったが、顔を作るということをそれほど真剣に考えているわけだ。
彼の芸の深さは、やはり歌舞伎で8年間精進した賜物なのだとつくづく思ったものだ。今の歌舞伎役者は映画に出てこれほどの存在感を出せるだろうか。

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