『戸田家の兄妹』 1941年松竹大船
監督:小津安二郎
脚本:池田忠雄、小津安二郎
撮影:厚田雄春
美術:浜田辰雄
音楽:伊藤宣二
父戸田進太郎:藤野秀夫 母:葛城文子 長女千鶴:吉川満子 長男進一郎:斎藤達雄
妻和子:三宅邦子 次男昌二郎:佐分利信 二女綾子:坪内美子 夫雨宮:近衛敏明
三女節子:高峰三枝子 時子:桑野通子 鈴木:河村黎吉 女中きよ:飯田蝶子 鰻屋の女将:岡村文子 昌二郎の友人:笠智衆、山口勇
『晩春』に始まる、小津の微妙な家族の風景はまだ確立していなかったのか、これは露骨な家族いびりなのである。悪人と善人がはっきりしていて有り体の映画でどうにも小津らしくない色調だ。だからといって詰まらないのではなく、俗受けはする。
戸田家は父が財を成した一家で、年一回の家族集合写真を撮るシーンで始まる。2男3女の大家族だ。ところがこの集まりを終えてすぐ父が亡くなってしまう。
死後に財産を計算すると残した財産よりも借款の方が多く、家を手放し家財は売りに出されてしまう。
結婚していない三女と母親は長男の家に間借りして暮らすことになる。
長男進一郎(斉藤達雄)は奥さんに頭が上がらないようで、妻の和子(三宅邦子)が同居している母と妹を邪慳にしているのを見ても何も言えないでいる。今までお母さんお母さんといっていた言葉が嘘のように、母親をないがしろにするさまを見て、三女の節子(高峰三枝子)はつらさを隠しきれない。
それで無能な長男はついに長女の千鶴に母を引き取ってほしいと頼み込んだ。厄介払いである。
しかし長女千鶴(吉川満子)の家でも細かいことで嫌味を言い、母親と妹をまるでいじめるようにして追い出してしまうのだ。父親が生きていたころの仲のいい兄妹の絆はすでにもうそこにはなかったのである。
各人がみな自分の家のことばかりを考えている、せちがらい今の時代の幕開けなのだ。
母と三女は居たたまれなくなって、空き家同然にしていた別荘に引っ越すことになってしまったが、そうなったらそうなったでまた嫌味を言うありさまである。二女美子夫婦もお母さんが自分の家に来なくてよかったと胸を撫でおろす始末だ。
かくて不幸なことではあるけれど、別荘において母娘で暮らす平和が訪れたのだった。
そして父親の一周忌の日、遠く天津で働いている次男昌二郎(佐分利信)が帰京してきた。彼はその場で、今まで一年の間に母に対してつらく当たってきた兄妹たちに怒りをぶつけるのだった。
そしてその気があれば天津で暮らさないかと母と妹に持ちかけるのだ。妹は兄の正直な気持ちの発露とすがすがしさをうれしく思い、父の死後初めての笑顔があふれた。
そして兄に結婚を勧め、自分の友人時子(桑野通子)を紹介するのだった。
落としもはっきりとハッピィエンドで、観客の溜飲が下がる仕掛けになっている。小津の作品にしては珍しい。
この映画は島津保次郎へのオマージュのような気がする。偶然ではあるけど、シマヅヤスジロウとオヅヤスジロウ、なんと似ていることだろう。島津保次郎も兄と妹の映画を作っている。その島津の『兄とその妹』(1939年)という映画を陰とすればこれは陽だ。妹が身内の世話になるというシチュエイションは同じである。アチラでは三宅邦子は優しい義姉をやっているし桑野通子はモダンで有能なタイピストを演じている。
コチラでは、高峰が初々しい役をするので珍しい。ここは後年ならば原節子の役どころである。同じく桑野通子もモダンガールではなくて日本的な女性をやっている。俳優にこういう新しい顔を演じさせるのも小津の力かもしれない。
佐分利信は同じようにおおらかで腰の据わった兄を演じている。
が、総じて男の俳優はあまり変わり映えのしない性格で出ることが多いのはなぜだろうか。男の役者には演技を「つける」ということが女性よりもやりにくかったんじゃないだろうか。それは今でも変わらない。
やはり映画は「男の世界」なのだ。

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