『ビルマの竪琴』1956年日活
監督:市川崑
原作:竹山道雄
脚本:和田夏十
撮影:横山実
音楽:伊福部昭
キャスト
水島上等兵 - 安井昌二 井上隊長 - 三國連太郎 伊東軍曹 - 浜村純 小林一等兵 - 内藤武敏 馬場一等兵 - 西村晃 牧一等兵 - 春日俊二 高木一等兵 - 中原啓七 岡田上等兵 - 土方弘 中村上等兵 - 花村信輝 川上一等兵 - 千代京二 大山一等兵 - 青木富夫 橋本一等兵 - 伊藤寿章 清水一等兵 - 小柴隆 永井一等兵 - 宮原徳平 松田一等兵 - 加藤義朗 阿部上等兵 - 峰三平 三角山守備隊隊長 - 三橋達也 ビルマの老僧侶 - 中村栄二 物売りの老婆 - 北林谷栄 その亭主 - 沢村国太郎 村落の村長 - 伊藤雄之助 竪琴を弾く少年 - 長浜陽二
子供のころに見た記憶が深く染み入っていた映画の一つである。
水島上等兵が河で髪を当たる場面が強く印象に残っていたのだけれど、今見るとほんの一瞬のシーンだった。こういう場面が幼いぼくには衝撃的だったのだ。
それと橋の上のすれ違う場面、仏像の周りを兵隊が水島の名前を呼びながら走る場面、北林谷江のおばあが物売りに来る場面、よく覚えている。
それに比べて戦闘場面などはほとんど忘れていたのだ。
人の心を揺さぶる普遍的な人間性が感じられる映画だ。
戦争という極限状態で合唱をするというアイデアが良い。決してありそうもないことだがどこかリアリズムがある。それは戦争に対するものとして軍歌ではなく故郷の歌を持ってきたことがそう感じさせるのだ。
しかしこれはどんな戦争にもあったに違いないことだ。人としての兵士は、たぶん軍歌の合唱のあいだに人知れず故郷の歌を歌ったに違いないのだから。
戦争映画の名作には必ず、戦争では有り得ないような美しい場面が登場するが、だからといってそれがリアリズムではないということはない
人はどのような苦難の状況にあっても夢を持つだろうし、そうしなければ生きれない。事実そうして見果てぬ夢を描いて死んでいくのが事実だったろう。映画はそうした人に成り代わって伝えるべきものを伝えるのである。だからこそ有り得ないような場面が胸に染むのではないだろうか。
映画では英印の兵士に包囲された日本軍の小隊がまさに玉砕寸前のところで、ふと歌いだす歌に隊員全部が唱和するのである。その歌は「埴生の宿」である。この歌はもともとイングランドの歌なので、敵の包囲軍の一部がそれに唱和し始める。と、その歌声が瞬く間に部隊全体に響き渡り、敵と味方の垣をこえてしまうのだ。このシーンは美しい。
それは誰もがそう願っていたこと(見るものでさえ)が起こるのであって、決して現実的ではないその状況を、その願いがリアリズムに変えたのである。それはまさに祈りだったのだ。
整然と降伏した部隊の一兵士水島が、ある山に立て籠っている日本兵に降伏をするよう伝令として派遣される。しかし彼らはそれを潔しとせず水島上等兵もろともに全滅してしまった。彼は崖下に転落しもう虫の息だったころに、偶然にもある仏僧に助けられて大きな仏陀の寝像の中で恢復を待つのだった。
ある日恩人の僧侶が水浴びをしているすきに、彼は僧の衣を奪って逃げてしまう。彼は髪を剃り、ビルマ僧に変装して逃げようとするのだ。
その途上、荒野で飢えた彼を本物の僧と見違えてお布施をくれる信者によって助けられるが彼は感謝もせず逃げる。
そして行きつく先で目にした日本兵の死体群が彼を突き動かした。せめてなけなしの流木で死体を焼き土に埋める。それを見ていた村の男たちが一人また一人と彼を手伝って穴を掘りはじめるのだ。
こうして水島は死者とビルマの村民によって次第に変わりはじめる。そして決心したのだ、もう日本には帰らないと。
こうしてあの劇的な、自分のいた小隊の兵士との橋の上での出会いと、鉄条網越しの別れの対面となっていく。
最後の曲は「仰げば尊し」である。こういう局面で聴くとなんと心にしみる歌だったかと思わずにはいられない。水島は竪琴でこの歌を弾き、仲間の呼び声にも決して振り返らずに森の中へと消える。
映画はこのあと、ビルマを去る船上で水島からの手紙が読まれるが、これは蛇足であって、つい市川崑の心情が顔を出したということだろう。水島の心情はすでに映画の中で言い切っているはずだからである。
どちらにせよ名作であることに変わりはない。
『おとうと』1960年大映
監督:市川崑
脚本:水木洋子
音楽:芥川也寸志
撮影:宮川一夫
キャスト
げん:岸惠子 碧郎:川口浩 母:田中絹代 父:森雅之
田沼夫人:岸田今日子 宮田看護婦:江波杏子 院長:浜村純
署の男:仲谷昇 鉄工所の息子:友田輝 刑事と名乗る怪しい男:夏木章
リアリティがないところがいいのかもしれない。こうでも思わない限りこの映画を見続けるのはつらいところがある。
ふって湧いたような小事件が次々に起こり、そのフォロウがないままにまたもやふって湧いたように大事件が起こる。弟が病に倒れるのだ。
何の伏線も張らずにこうして物語は進むのだが、これは意図してそうなのか脚本の未熟性なのか、はたまたポストモダニスムなのだろうか。つまり物語を伝えることを拒否しているのだろうか。
先日『ビルマの竪琴』を見たせいで、同じ市川崑がこれほど力が「落ちて」しまったのだろうかといぶかしく思う。それほど『ビルマの・・』には大きなドラマがあった。たった4年の違いでこれほど様変わりしてしまう監督の手腕やいかに、である。
姉弟以外の登場人物の影があまりにも薄い。そして映画を背負って立つこの二人の演技力が見合っていないし、脇がそれを補っているかといえばそうでもない。役者はそろっているというのに、なぜだろうか。
だからといって登場人物の魅力がないというわけでもなし。岸恵子などは彼女の資質を十分に発揮して生き生きとした女性なのである。
だからやはり取って付けたような演技も、意図してのことだろうと思いたい。姉と弟という図像があればそれでいいのだと、そこにおけるどこか非現実的でそれでも充分に美しい絵が描ければと思ったのかもしれない。
そういう意味ではこの映画はある種の成功作に見える。
弟のぎごちない演技も明るすぎる優しい姉の姿も、彼らがひとつの象徴としての図像だと考えれば成り立つではないか。そういう映画なのだと思えば一つ一つのシーンのあり方が生きてくるし、最後のあまり意味を持たないそっけない終わり方がそれなりの意味を持つようにも見えるのだ。
しかし、そうだとしたら、作意が見え透いているではないか。

0