『滝の白糸』 1933年入江プロ
溝口健二監督
東坊城恭長、増田真二、舘岡謙之介脚本
入江たか子、岡田時彦、菅井一郎、村田宏寿、滝鈴子、見明凡太郎、浦辺粂子
サイレントである。それに後から入れた弁士の声が入っている。
この映画の題名は昔から知ってはいたが、こんな物語とは思いもよらなかった。この映画、メロドラマかと思っていたのだ。
しかしこれは気丈な女の一代記ではないか。相手の男の何と影のうすいことよ。まさに日本的ドラマのひとつの型(「対等でありつつ、男を養う女」こういう形がいかに多いことか)を示した作品として面目躍如である。ダイナミックな展開がドラマを生き生きさせている。見るものを引っぱって行く力はすごいものがある。
しかし、映画としてはどうかというと無理やりな展開がいくぶんこの映画の価値を下げたような感じだ。
この怒涛のような終末の展開を良しとする向きもあるだろうが。まるで「映画のよう」なのだ。そして、まるでヤマネコのような眼をした入江の姿が凛々しいのである。
原作の泉鏡花の『義血侠血』(この映画の元本という)とはどういうものだったんだろうか。と気になった。
明治時代、金沢で今をときめく水芸の美人「滝の白糸」が楽屋で思い出し笑いをしている。いったいそれが何ゆえかといえばつまり・・という出だしである。
彼女が以前に乗合馬車で峠を越えようとしたおりに、人力車に追い抜かれたことがある。
当時乗合馬車といえば新しくお目見えした乗り物で、それが人力車ごときに追い抜かれるなんてと乗客は憤慨した。その中にいた「滝の白糸」こと水島友(ゆう)は御者の青年にはっぱをかけると、彼はそれならと猛スピードでその人力車を追い抜いた。
しかし肝心の馬車が壊れてしまった。馬車を修理している青年を見下ろしてゆうは彼に、夕方までには目的地までに行けますかね?とからかう。青年はそれを聞いて馬を馬車から解いて、ゆうを抱えて裸馬で走り去るのだ。客のあわてた様子を後にして。
その負けず嫌いの青年の清々しさは彼女に強い印象を残した。
と、そんなことを思い出してゆうは微笑んでいたのだ。その青年の意地っぱりを懐かしさ以上の思いを込めて思い返したのである。
ある夜、仕事がはけた暑い夜、涼みがてら外に出た彼女は橋の上で寝ている男を見る。橋の上が涼むにはいい所と上がってみると、すっかり眠っているその男は団員ではなく、なんと件の馬車の青年だったのである。彼女はその寝顔を見てなんという因縁かと心ひかれる自分を確認するのだ。
出だしは好調でこれほどの無頼の青年に恋心をいだくというのは、何とも気丈夫な滝の白糸にとっては似合いの相手だと、そう思った。そしてその青年に話しかけると彼が働きながらの苦学生と分かり、できれば東京で勉強をさせて見たいという気持ちを彼女に起こさせるのだ。彼の男気に惚れたのである。
しかしかっこいい青年の姿はここまでで、あとはゆうがこの青年に仕送りするための波乱万丈の生活と戦いぶりの物語なのだ。まったく青年の生きざまが描かれないのだ。つまりほとんどは彼女の一人芝居なのである。映画もそうだが内容もまったく彼女の生活だけの映画なのだ。これがこの映画が底力に欠けるところなのだ。もったいないというのが正直な感想だ。
「滝の白糸」の水芸も客の入りが悪くなり、彼女は仕送りの金に算段するがついに底をついた。団員の駆け落ちやら何やらで気前よく金子をばらまいてしまったのだ。何とも心優しい女である。
しかしもうどうにもならなくなりついに身を売ってまでも青年に仕送る金を作ろうとするが、その金も奪われてしまうのだ。あげくの果てにゆうはだました男を殺してしまい、金を奪って逃げる。そして青年のいる東京へと飛ぶのだが会うことができず、官憲につかまって護送されていく。
裁判の結審の日、新しく気鋭の青年検事が法廷に現れる。その顔を見て彼女は驚きとうれしさに慟哭する。なんとその検事は誰あろう自分の恋する青年の、念願かなった晴れ姿だったのだ。
何という運命だろうか。自分の育てた検事に死刑の判決を受けることになったのである。
翌日未明、己を育ててくれた恩人に死を宣告し、職務を全うしたその青年検事は自ら自死するのである。何とも歯がゆいムリのある結末だ。正直実直な青年の姿をここまで杓子定規に描く必要もないだろうと思う。
しかしこういう、救いを残さない悲劇の結末は、日本映画の十八番なのではなかったかとも思った。楽天性のもう一つの顔である。

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