『蜂の巣の子供たち』 1948年
清水宏 脚本、監督
出演は大人も子供もほとんどが無名の素人である。
「蜂の巣映画」という、松竹をやめて清水宏が立ち上げたプロジェクトの映画である。
こういう映画を作ること自体が快挙だが、それにも増してこの映画が歴史に名を刻むほどの秀作なのが凄いと思う。戦後の敗戦のあとの荒れ果てた大地と、そこで生きる戦争で親を失った子供たちのなんともやるせなくそして強い眼差しを映像にとらえていて観るものを引き付けるのだ。
つまりすべてが「美しい」のだ。まず映像がすべてロケで成り立っていて、清水の得意の自然の中の子供という構図がきれいなのだ。それは過剰なアップがないことである。人間が在るのではなくまず大地があっての人間なのである。痛々しい廃墟となった街は全国の都市を空襲で焼き払った戦争の実態である。
その中において少し優しすぎる復員兵と子供たちはまったく違和感のないリアリズムを作りだしているのだ。こうであったらいいなという願望ではなくそうであったはずだというリアリズムの美しさなのだ。
下関駅によるべない復員兵がたたずむ。駅のホームにはこれも親を亡くした孤児たちがたむろしている。
彼らは食べるために、片足のヤクザな男にしたがって物乞いや盗みをしているのだ。復員兵の島村はその子供たちには優しい。それは彼も孤児であったからだ。そして孤児たちと島村はそれとなく心が通じ合い同じ方向に足を運ぶことになる。
材木の運びを手伝ってサツマイモをもらって食った子供が、「このさつまいもは美味いなぁ」と言うと島村が、それは働いたから美味いんだよ、と子供に言うのだ。すると子供たちは空腹でゴロゴロしている人たちにそのサツマイモをあげながらその後に、あの人たちは働いてないから美味しくないんだよね、などと言うのだが、この優しく辛辣な子供の言葉がその当時の子供の強さとあどけなさを現わしていてジンとくるのである。こうして放浪の生活をした子供たちは終戦直後には珍しくはなかったのだ。
四国で塩田の仕事をし大阪で働き、そのあとも点々と当てもなく仕事を探して放浪する彼らの間でだんだんとまともに生きたいという気持ちが湧いてくるのだった。
先日の『映画女優』という映画では、清水宏はまことにいやな奴として描かれていたが、それはつまり田中絹代と結婚した後の家庭生活で彼は絹代を殴ってしまい、たった一年半で離婚されたというエピソードが語られていたのだが、そういう彼がこのような子供を描いた秀逸な作品を数多く残していたとは思いもよらないような出来事である。
これも、人柄と芸術は別だという証拠である。
ことのついでにその映画を紹介する。
『映画女優』 1987年東宝
市川崑 脚本監督
新藤兼人、日高真也脚本
吉永小百合、森光子、渡辺徹、中井貴一、菅原文太、石坂浩二、岸田今日子、平田満
原作は新藤兼人の書いた『小説・田中絹代』である。ぼくはこの本を面白く読んでいたので映画も面白かった。映画に小説の部分を見つけ出して面白いという、これはもちろん邪道な見方である。
はてと胸に手を当てて振り返ると、この映画、それほど面白いものじゃないかもしれないな、と感じた。田中絹代に思い入れがなければ、ただ周りにちやほやされて好き勝手にふるまう大物女優の姿が見え隠れするだけかもしれない。
とにかく田中絹代という人の「強さ」は魅力的だ。まるでピアノ線のような強さなのである。細いが絶対に切れたり曲がったりしないのだ。
これを吉永小百合が演じきれたかというとまったく歯がゆい。それもそのはずで絹代を演じるなんて誰もできないだろうというのが実際のところである。
ぼくとしては、ほとんど実名さながらでまわりの人間が描き出されるので、ああこういうこともあったんだろうなと、そういう興味で見ているので楽しいわけである。
結婚した清水宏に殴られてお返しに部屋におしっこをしてしまったという逸話も描かれるが、奇なる事実を映画にしても事実だからといってリアリズムが生まれるわけじゃないのだ。

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