『夜ごとの夢』 1933年松竹(サイレント)
成瀬巳喜男 原作、監督
池田忠雄 脚本
栗島すみ子、斉藤達雄、吉川満子、新井淳、坂本武、飯田蝶子、
何やら色っぽい題名だがまったく関係なし。この頃の映画のタイトルはいかに内容をひねって表現するかが粋なのだった。
これはまったくの悲劇である。とことん悲劇である。救いようのない悲劇だ。
その悲劇を悲劇としてしまうのはまたしても「男」である。意気地のない、生活力のない男だ。それが女に尻をひっぱたかれても何もしない意気地なしだ。あげくに死んだつもりで働くとか言いながら自殺してしまう体たらくな男だ。
つまりこれも一種の母もの映画(母と子供の苦労話)である。
酒場で働く女おみつには小さな男の子がいる。長屋の隣の夫婦に面倒を見てもらっているがお礼をする金がない。彼女は港の酒場で、飲みにくる船員たちの人気者だがその船長が金でおみつを買おうとしている。
そんな折に、逃げた夫が突然帰ってくるがこの男がただ優しいだけでいっこうにうだつが上がらない男だ。とにかく生活力がないのだ。しかしまともな母親として子供の世話をして暮らせれば貧乏は我慢できるということで、おみつは夫とのヨリを戻すことにする。
がしかし、やはり男は自分はダメな男だと決めつけてうじうじしているばかり。そのあげくに金を得るために泥棒をはたらいてしまい、警察沙汰となってしまう。そんな時に子供が車にひかれて腕を折ってしまうという悪運が続いてしまうのだ。
見るほうにとっては、これでこの男もさすがに目が覚めるだろうと次の展開を待つわけだ。しかし、男は心を入れ替えて働くかというと、あっけなく身投げ自殺をしてしまうのだ。
子供を病院にも入れてやれぬ運命の冷たさと男への未練を残して、おみつが泣き崩れる結末である。
何という運のない女なのだろうか。とことんまで観客の願いを裏切って押しまくる展開には、成瀬さん参りましたというしかない。
『淑女は何を忘れたか』 1937年松竹
小津安二郎 脚本、監督
伏見晃 脚本
厚田雄春、茂原英雄 撮影
栗島すみ子、斉藤達雄、桑野通子、佐野周二、飯田蝶子、吉川満子、突貫小僧
先の『夜ごとの夢』(成瀬巳喜男監督)の悲劇一色のドラマを演じた二人(栗島すみ子、斉藤達雄)を同じ夫婦として使って真逆の「コメディ」に仕立てたところが面白い。
考えてみれば『夜ごと』の悲劇も、コメディといえなくもないのだ。ダンテの『神曲』の原題も『コメディア』なのだから。
まだ小津がムズカシイ映画を撮る前の作品だと思う。他愛のないホームドラマだがその滑稽さに哀愁がにじんでいる。こういう日常の悲喜劇が日本映画の十八番である。
斉藤達雄は大学教授で、自宅に関西から姪が訪ねてきた。このあけすけな現代娘は桑野通子である。奥さん連中は日がな暇をもてあそんでいておしゃべりに余念がない。休みとなればダンナはゴルフに行くのが決まりとなっているらしく、奥さんはダンナを送り出すが、どうも行く気になれない日もあるらしい。それで奥さんにゴルフに行くと嘘を言って姪と飲みに行ってしまう。
姪はおじさんが妻の尻に敷かれていることを半ば軽蔑している。
さあ、それからが大変。ゴルフ場は雨だったことが知れてしまい、ウソがばれてしまった。
奥さんが執拗にグジグジと夫の行った先を追及するので、ついに夫は堪忍袋の緒が切れて妻の頬を張ってしまう。黙ってしまう奥さん。いったいこの後どういう修羅場が展開されるかと息をのむが、どうも奥さんの様子がおかしい。何も言わずに部屋に行ってしまうのだ。この息の詰まるような白々しい間が続くところがいい。
差し出がましい奥さんにうんざりしていた姪は、してやったりという気分だ。しかしなんだか奥さんが気の毒になったのか、結局伯父と飲みに行ったこと、同僚の下宿に泊まったことを白状してしまった。
ところがダンナはまた奥さんの機嫌をとりに誤りに行ってしまう。とりあえず仲直りとなってほくそ笑んでいるところを姪に見られてしまい、威厳がない!と姪におこられてしまった。
翌日、どうも奥さんは初めてぶたれたことで、「男らしい」ダンナを見て妙に嬉しそうなのである。新しいネクタイなぞを買ってきておしゃべり仲間に見せびらかしている。姪は大阪へ帰った。
その晩に、ダンナにコーヒーをいれたりして、お前こんな遅くに眠れなくなるじゃないかというダンナに、眠れるわよぅ、と何やら猫なで声を出し、そそくさと部屋の電気を消してしまう。部屋が暗くなったところで、おしまい。
まったく影を残さない軽い結末である。
ハッキリした物言いの桑野通子が清々しい。とにかく女上位の、そしてそれでいいのだと言いたげな映画である。

0